紅葉のような葉っぱの形と、その実が山伏が着る茶色の服「篠懸(すずかけ)」についている房の形に似ていることから名づけられました(この房の名は正しくは「結袈裟」というそうですが)。
モミジバスズカケの木は、イギリスで作られたスズカケノキとアメリカスズカケノキを掛け合わせた交配種で、明治時代に日本に輸入されたものが新宿御苑で育てられたものが初めてです。
広々とした芝生が広がる「風景式庭園」や「中の池」、下の池の北側にある「フランス式整形庭園のプラタナス並木」、中の池の南斜面につつじが植えられている「つつじ山」などで撮影をしている様子が雑誌に掲載されています。
名曲『ラブリー』を新潟までの新幹線で書いた話(1994年のツアー『Disco To Go』新潟公演時)や『指さえも』の歌詞の話、上海の「上海市体育館」で上海市交響楽団とオーケストラコンサートを演った際(『ドリーム・シンフォニー in 上海』)、アジアのノリを感じ、また自身の歌が好評で刺激を受けた話などが語られています。
偶然と言えば偶然なのですが、NYCへと旅立つ直前の1997年時点で『フクロウの声が聞こえる』にも登場するプラタナスの並木や『アルペジオ』の歌詞で描かれた古川の源流の中の池で撮影を行っていたというのは驚きです。
玉川上水と隠田川
新宿御苑の北側は江戸時代に江戸市中に飲料水を送るための玉川上水が流れていました。
新宿御苑の東側の境界線沿いには、玉川上水が四谷大木戸から地下水道へ入る前に余った水を流していた「玉川上水余水吐跡」があり、かつてはこの水が隠田川の方にも注いでいました(上記リンク参照)。
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玉川上水余水吐が玉川上水と分岐するところから下流を眺めた写真。 2021年1月上旬撮影。 |
新宿内藤町周辺の坂。2021年1月上旬撮影。
玉川上水余水吐の辺りは途中から坂になっていますが、この辺りは千駄ヶ谷の支谷で、余水吐はこの支谷を利用しています。
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玉藻池。左手前側に見える石の辺りから余水吐からの水が流れていた。 2022年8月中旬撮影。 |
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玉藻池に引いていた余水吐からの水路の一つ。2022年8月下旬撮影。
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なお、新宿御苑の大木戸門近くにある玉藻池は、安永元年(1772年)に余水を利用して完成した内藤家の庭園『玉川園』の一部で、池はその谷頭にあたります。
余水吐から池に水を引き、また余水吐の方に水を戻していたそうです。
玉川上水余水吐の水はかつては隠田川の方にも注いでいました。
そのため、明治時代頃までの(原宿の現キャットストリート付近を含む)隠田川の水量は豊富で、流路には水車小屋が沢山あり、多くの産業が栄えていたそうです。
例えば、玉川上水余水吐跡付近は三菱鉛筆の創業の地で、余水吐の豊富な水を利用して水車を動力とする三菱鉛筆の工場(当時の名称は眞崎鉛筆製造所)がありました。
余水吐にほど近い多武峯内藤神社の内藤児童遊園内には1887年から1916年までこの地に三菱鉛筆の工場があったことを記した「鉛筆の碑」があります。
[鉛筆の碑の写真]
玉川上水余水吐は1960年代初め頃までは水が流れていたそうですが、余水吐は1964年の東京オリンピックの際に隠田川が暗渠化されたのと同時期に暗渠化されたそうです。
これは現西新宿にあった、玉川上水からの水を使用していた淀橋浄水場が1965年に無くなり、玉川上水の水道としての役割が無くなったことと関係しています。
玉川上水は多摩川の上流の羽村から水を取り入れる取水堰を設けて四谷大木戸まで43kmもの距離に渡って築かれた水路(開渠)です。
多摩川は小沢さんが学生時代を過ごした川崎北部を流れる小沢健二さんゆかりの川ですが、その多摩川の上流から引かれた水が江戸市中を潤し、また江戸/東京の中心を流れる古川の水を湛えていたというのは何だか感慨深いものがありますね。
暗渠となった隠田川〜新宿御苑を出て千駄ヶ谷や原宿を流れ渋谷まで〜
新宿御苑を出て千駄ヶ谷へ
新宿御苑を出た水の流れは暗渠となり、新宿御苑の南方を東西に走るJRの線路辺りで、同じく暗渠となった玉川上水余水吐と合流します。
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JRの線路の一部がレンガ造りになった壁の写真。2023年3月中旬撮影。 |
その合流部へ行くと、JRの線路の壁の一部がレンガ造りになっているのが確認できます。
これはかつて隠田川にかかっていたレンガ造りの橋の跡だそうです。
JRの線路と首都高速4号新宿線を越えた隠田川は、国立競技場の西側を通って南下し、原宿のキャットストリートへと向かいます。
以前は国立競技場の西側の暗渠部分は都立明治公園の一部で、隠田川のあったところは南北に細長い公園になっていました。
しかし、明治公園は新国立競技場ができるにあたって一帯が整備され、新国立競技場の敷地の一部となってしまいました。
そして競技場の北西部の高台から約70mの区間だけですが隠田川の流れを人工的に再現し、暗渠ではなく地上を水が流れるようになりました。
これには「NPO法人渋谷川ルネッサンス」という非営利団体が関わっているようです。
「渋谷川ルネッサンス」は、「渋谷川を太陽の下を流れる川として再生・復活させる事業及びそれに関連する事業を行い、広く世界の人々に対して水と川の重要性の認識を高め、今後の川に関する諸活動を推進することを目的として活動しているNPO法人」だそうです。
ちなみに、都立明治公園は新国立競技場の南側に場所を移設し、現在新国立競技場と調和する公園施設とし再整備中で、2023年10月に供用開始予定でしたが、予定が長引いており、2024年1月31日まで工事が行われる予定だそうです。
この都立明治公園の再整備は、東京都として初めて都市公園法に基づく公募設置管理制度(Park-PFI)を活用することによって実現したそうです。
事業者は東京建物、三井物産、日本工営、西武造園、読売広告社、日テレ アックスオンで構成される「Tokyo Legacy Parks」だそうです。
この後隠田川はほぼ外苑西通り沿いを下り、「ジャガー・ランドローバー青山」の建物の北側の道を通り南西に下っていきます。
なお、渋谷区障害者福祉センターから渋谷駅の宮益坂交差点の西側まではキャットストリート「旧渋谷川遊歩道路」という名称がつけられていますが、道中にはかつて隠田川にあった橋の親柱の跡を幾つか見ることができます。
原宿
キャットストリート
『泣いちゃう』のMVでも登場する原宿のキャットストリート(旧渋谷川遊歩道路)は、隠田川の流れに沿った道です。
隠田川は今は上に道路が走る暗渠としてキャットストリートの下をひっそりと流れていて、現在は河川としてではなく、東京都下水道局の管理する「千駄ヶ谷幹線」という名前の下水道になっています。
(※『泣いちゃう』MVは公式では現在非公開になっています。)
[参道橋の親柱の写真]
キャットストリートと表参道が交差する地点には「参道橋」と書かれた橋の親柱が残っています。これはかつてここに川があり、橋がかけられていた名残です。
[参道橋の下の写真]
表参道はキャットストリートよりも高い位置を通っていて、表参道がキャットストリートを分断する形になっていますが、かつてはこの部分に橋があり、下のキャットストリートに隠田川が流れていたのです。
表参道の通りは大正時代の明治神宮の造営に伴って出来た道で、現表参道駅の交差点から明治神宮に向かってなだらかな坂となる直線の道が作られました。
ちなみにキャットストリートの南東側、現「エルメス表参道店」の入口は立派な石垣になっていますが、これは大正時代に表参道を作った際に築かれた石垣の名残だそうです。
この辺りは隠田川が作り出す河岸段丘で小高くなっていたため、なだらかな参道を作るために地形が削られ、削った道の両側が石垣で覆われたそうです。
表参道は今では参道と同じ高さに高級ブティックの建物が並んでいますが、かつてはこのような石壁が表参道の両側を覆っていたそうです。
[隠田商店街の看板]
なお、キャットストリートの商店街の名前は「隠田商店街」と言います。
この辺りには江戸時代より隠田川が集落の中心を流れる隠田村という村があり、その地名が川の名前や商店街の名前として今も残っています。
[冨嶽三十六景《穏田乃水車》の写真]
穏田川は玉川上水の余剰水を受けていたために豊富な水量を誇り、往時には、よく知られた「穏田の水車」をはじめ、いくつもの水車掛けが見られたといいます。
明治神宮から隠田川に流れる支流の跡、ブラームスの小路
[ブラームスの小径の写真]
竹下通りの裏手にあるフォンテーヌ通り(ブラームスの小径)は明治神宮の南池の方から流れる小川の暗渠が通っており、隠田橋付近、現在ラルフローレン表参道店がある辺りで隠田川と合流していました。
この源頭はパワースポットとしても知られる「清正井(きよまさのいど)」です。
また、原宿の竹下通りと明治通りとの交差点の角にはユニバーサルミュージックジャパンの建物「神宮前タワービルディング」があります。
当時アイコンから特定していた方々がおられましたが、2019年秋にSNS上で行われたアルバム発売を記念して行われた『So kakkoii 宇宙 リスニングパーティー』はユニバーサルミュージック内で行われていたようです。
また、現在ユニバーサルミュージックジャパンの建物がある場所は、1995年5月26日に「小沢健二のオールナイトニッポン」の生放送が収録された「Aux Bacchnales (オーバカナル)」があった場所でもあります。
ミヤシタパーク(宮下公園)からのんべい横丁へ
[ミヤシタパークの写真]
宮下公園の東側の道は南西に通っており、公園は南へ行くにしたがって細くなっています。
宮下公園が細くなったその先に昭和の雰囲気を残す飲み屋街、のんべい横丁がありますが、この南西に通る道が暗渠化した隠田川です。
のんべい横丁の建物の建ち方をみると、暗渠となった川の通りには入り口がなく、かつてここに川があったことを想像させます。
宮下公園やのんべい横丁の形も、実は川の流れが関係しているということが分かるかと思います。
隠田川は宮下公園付近で現在の明治通りを横切り、ミヤシタパークの東側に沿う形で南流し、渋谷駅の北、宮益坂下交差点西方(現・みずほ銀行およびリンツチョコレート前付近)にかつて架かっていた宮益橋の直前で西から流れる宇田川と合流し、隠田川は渋谷川と名前を変えます。
小沢健二さんが2020年の夏にツイートをしたこのミヤシタパークの写真のところが、ちょうど明治通りと隠田川が合流する場所になります。
写真で言うとミヤシタパークの手前の道路沿い(明治通り)を右から左の方(渋谷駅方面)へと隠田川は流れています。
個人的には、この場所で撮影したというのも、変わらない川の流れと、再開発された宮下公園、つまり変わりゆく都市とをリンクさせるような、何かそんな意図的なものを感じます。
PPP(パブリックプライベートパートナーシップ制度)を採用し、官民連携によってつくられたミヤシタパーク。
30年間の定期借地が終わり三井不動産がその権利を失うころ(定期借地権は更新できない)、この試みはどう捉えられ、この公園はどう変わっていくのでしょう。
小沢健二さんが言われるように、「ホームレスたち、あのスケーターたち、怪しげな恋人たち、怪しげなションベンの匂い」は、ここに帰ってくるのでしょうか。
その前に、30年後に自分たちが生きていることすら分かりませんが...。
渋谷川〜渋谷から恵比寿・広尾まで〜
渋谷
隠田川は渋谷駅の地下で渋谷のセンター街の地下を流れる宇田川と合流し、渋谷川と名称を変えます。
2018年のツアー『春の空気に虹をかけ』や2022年のツアー『So kakkoii 宇宙 Shows』のチケット一般販売の際に広告柱が出された渋谷駅の地下通路は、まさにこの宇田川と隠田川の合流地点付近でした。
この場所はどちらの広告の際も、ある種呪術的、マジックリアリズム的とも言えるような、物凄く不思議な演出がなされていました。
2018年2月に『春の空気に虹をかけ』チケット一般販売に合わせてこの場所に広告柱が出された際には、BalenciagaのHoodieに身を包んだ小沢健二さんが柱の間に吸い込まれるGIF動画がひふみよトップページで公開されました。
また2020年1月に『So kakkoii 宇宙 Shows』の一般販売に合わせてこの場所に再び広告柱が出された際には、アルバム収録曲『薫る』の曲に合わせて子どもたちが広告柱の周りをぐるぐると回っていました。
この地下通路は多くの路線を繋ぐ通路となっており、絶えず多くの人たちが行き交う場所です。
小沢健二さん自身は特に言及はしていないのですが、本記事の最初に紹介した『So kakkoii 宇宙 Shows』のライブ中に読まれた古川の朗読の際、古川の上を高速道路が通り、現在川の上を車が走っていることを感慨深く述べていたことを考えると、宇田川と隠田川の合流地点で絶えず人びとが行き交っているこの地下通路にも同じようなことを感じていたのではないでしょうか。
人びとが多く行き交う地下通路の傍を流れる古川は、近年再開発され人びとでにぎわう「渋谷ストリーム」の辺りで渋谷川として地上に姿を現し、南へと下ります。
しかし、その姿は川とは言い難く、「コンクリートの高い壁に挟まれて、堀のように低い場所を流れて」います。
恵比寿
現在の「渋谷川」は渋谷ストリーム北辺の「稲荷橋」地点を起点とし、広尾の「天現寺橋」で笄川が合流するところで「古川」と名前を変えます。
渋谷川に架かる「稲荷橋」が化粧直し 再開発に合わせ整備
渋谷川の流域は、1986年から老朽化した護岸を包み込む形でコンクリート護岸による河川改修が行われているため、深い大きな溝のような外観を呈しています。
[渋谷川の古い護岸]
渋谷川をよく見てみると、崩れかけた古い護岸が所々に残っています。
また、代官山の辺りまでは東横線の線路跡として遊歩道はありますが、それより南側では川沿いには一部を除いて道はなく、川に沿って家やビルがひしめくように立ち並んでいるため、橋から覗くなどの方法でしかその姿を見ることはできません。
古川〜広尾から芝公園を経て東京湾に注ぐまで〜
広尾
広尾の「天現寺橋」で渋谷川は終わり、それより下流は「古川」と名前を変えます。
天現寺橋の辺りでは北の青山や六本木辺りから流れる笄川(こうがいがわ)が南下し合流しています。
その合流地点より下流を「古川」と呼びます。
ちなみに、広尾の渋谷区と港区の区境はこの笄川に沿って走っています。
なお、「天現寺橋」の名前は近くに「天現寺」というお寺があることに由来します。
天現寺橋の辺りから明治通りが古川沿いを走りますが、天現寺を過ぎフランス大使館の裏に差し掛かる辺りで南側から首都高速道路の高架(首都高速2号目黒線)が古川の河川上を通るようになるため、古川は更に見えにくい川となってしまいます。
麻布
「麻布」という地名はとても広く、麻布の名が付いている麻布十番は勿論、青山から三田までを含む区域で、戦前の「麻布区」に相当する地域です。
古川の朗読でも「古川橋」「一の橋」「赤羽橋」といった古川に架かる橋の名前が幾つか出てきました。
麻布で古川はクランクを描くように流れていきます。
「古川橋」の辺りで北上し、「一の橋」でまた西へと流れ、「赤羽橋」より下流で「東京恋愛カーブ」を描きその後はまっすぐ東進し、東京湾へと注ぎます。
ちょうど『So kakkoii 宇宙 Shows』のグッズのロゴに描かれた部分からが麻布になります。
古川橋
[古川橋の写真]
古川橋は、それまで西から東へと流れていた古川の流れが北へと進路を変える場所に位置する橋です。
古川橋の歴史はそれほど古くなく、少なくとも江戸時代にはありませんでした。
元々は私設の橋だったものを、のちに東京市に編入したのが始まりだそうです。
東京都道415号高輪麻布線が古川と交わるところに架かっています。
古川橋のすぐそばにある明治通り「環状5号線」と東京都道415号高輪麻布線が交わる古川橋交差点は、渋谷駅辺りから渋谷川・古川に沿って走っている明治通りの起点となる交差点です。
古川橋のある明治通りと東京都道415号高輪麻布線の古川橋交差点は明治通りの起点となっています。
明治通りは東京都港区南麻布二丁目の古川橋交差点から、渋谷区、新宿区、豊島区、北区、荒川区、台東区、墨田区を経由して江東区夢の島に至る総延長約33.3kmの道路のことです。
1923年(大正12年)の関東大震災後の都市計画に基づいて、東京初の環状道路となる「環状5号線」として整備されました。
1923年(大正12年)の関東大震災後の復興のため、1927年(昭和2年)の都市計画に基づき、東京初の環状道路となる「環状5号線」として整備された[2]。明治通りの山の手を走る区間のうち、渋谷駅付近から現在の神宮前交差点(渋谷区神宮前)に至る部分は、渋谷川に沿う古道を整備するかたちで1928年(昭和3年)に完成、また、神宮前交差点から新宿に至る部分の完成は1930年(昭和5年)であった[3]。東京の環状道路として最初に整備された明治通り(環状5号線)は、都市計画に基づく道路整備中に太平洋戦争が始まったため、整備が一時棚上げ状態となったが、終戦後は復興のため区画整備と一体となって再開された[4]。
かつては数多くの都電(4・5・7・8・34系統)が走る主要な停留所・乗り換え地点として有名であり、現在でも都営バス(都06,品97)の古川橋バス停がある。
一の橋
[一の橋の写真]
古川は一の橋辺りで直角を描き、東へと流れます。
一の橋の西側には麻布十番があり、今では地下鉄の麻布十番駅があり商店街がにぎわいをみせています。
麻布十番の名前の由来は諸説あるようです。江戸時代に古川の改修工事を行った際の「10番目の工区だったから」とか、「10番目の土置き場だったから」という説。
また、1698年(元禄11年)に五代将軍徳川綱吉の白金御殿を建築する際に土運びをする労働者が一番から十番の集団に編成され、この地域の人々が十番目に当たっていたことに由来するという説もあります。
麻布十番は『強い気持ち・強い愛』制作時に筒美京平さんとよく食事をしていた「クチーナヒラタ」があった場所で、小沢健二さんにも馴染みの深い場所です。
麻布十番は芸能人が足しげく通う店が多く今では高級なイメージがありますが、庶民的な下町の雰囲気を残す街です。
街の大部分は古川沿いの低地に属しており、古くは麻布村という村に属する低湿地帯だったそうで、低地側は湿気が多く人の住みにくい場所だったようです。
古川の河川改修により干拓、開拓を行うことで街が開発され、明治時代には繁華街となっていたそうです。
古川を挟んで一の橋を渡った先、三田小山町の街の様子は麻布十番と全く異なり、関東大震災や戦災を免れた古い街並みが残る区域になります。
三田小山町に住んでいた方の話をネットで検索すると、どちらかと言えば裕福な人たちが住む地域ではなく、庶民が暮らす下町の雰囲気を残す街並みだったようです。
ただ、一の橋から赤羽橋にかけては戦前と戦後に幹線道路整備と古川の河川整備が同時に行われており、江戸以来の町割が区画整理され、町の様子が大きく変わっているようです(森記念財団編『古川物語』より)。
また、慶応大学三田キャンパスが近いことから、古くは大学生向けの下宿が多く、学生が住む街でもあったようです。
芝公園
芝公園は港区の芝地区にある都立公園です。
江戸時代、この辺り一帯は徳川家の菩提寺のひとつである増上寺の境内でしたが、明治時代に増上寺大殿周辺の敷地は公園となりました。
公園になった際に芝公園の敷地は芝公園地1-25号地の計25区画に振り分けられました。
ちなみに、現在増上寺のある場所は芝公園地2号地、東京タワーのある場所は芝公園地20号地だそうです。
江戸時代の地図と現在の地図とを比べてみると、現在の道路の割り振りが江戸時代の増上寺の様子を反映しているのが分かります。
現在増上寺の東側には芝大神宮が位置していますが、元々芝大神宮は現在増上寺がある場所にあったそうです。
社伝によると鎮座は寛弘2(1005)年で、元々は赤羽橋の近く、小山神明という所にあったが、慶長3(1598)年徳川家康が麹町にあった増上寺を現在の地に移設した際に芝大神宮を移設したそうです。
芝大神宮は天照皇大御神(伊勢神宮内宮の主祭神)、豊受大御神(伊勢神宮外宮の主祭神)を奉る神社で、「大江戸の大産土神(おおうぶすなかみ)」「関東のお伊勢さま」として江戸や関東近郊の人びとに信仰されていたようで、参道には茶屋や吹き矢などの出店や芝居小屋が立ち並び賑わっていたそうです。
芝大神宮の社伝によると、古くは米を盛った様子に似た山の形をしていることから飯倉山と呼ばれた芝丸山古墳に伊勢神宮を勧請して創建されたと伝えられています。
飯倉の地名の由来は諸説ありますが、古くからこの地は飯倉御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園で、伊勢神宮に穀物を奉納するための倉があったとする説があり、そのため周辺地域は飯倉の名がついているという説があります。
アルバム『So kakkoii 宇宙』のティーザー映像『小沢健二飯倉片町藪蕎麦前』の場所「飯倉片町」もその飯倉という地名に由来しているそうです。
東京恋愛カーブ
「東京恋愛カーブ」は赤羽橋から下流の芝公園付近の首都高速が描くカーブのことです。
この首都高速のカーブが何故出来ているかというと、朗読にもあった通り、この辺りは古川の上に首都高速が走っているため、古川の流れが描く自然のカーブのまま首都高速自体もカーブを描いています。
小沢健二さんの楽曲『東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー』の歌詞で「東京タワーをすぎる 急カーブを曲がり」とありますが、その急カーブが「東京恋愛カーブ」です。
「東京恋愛カーブ」を作る古川のカーブ自体は自然のままだそうですが、その前後の川の流れは江戸時代の工事により人為的に作られたものだそうです。
「一の橋」から河口までは「東京恋愛カーブ」を除き比較的まっすぐな川の流れですが、この辺りは「新堀川」とも言われており、船運が盛んだった江戸時代(元禄年間)に船を入れられるように掘り割り(地面を掘ってつくった水路)を築き河川のルートを変えたところのようです。
それまでの古川の下流は三田小山町(アルペジオ界隈)辺りで2つに分かれていて、現在の東京恋愛カーブの流れは細い支流だったそうです(三田図書館 1971『港区近代沿革図集〈芝・三田・芝浦〉』より)。
もう一本の本流側は東京恋愛カーブの手前辺り(芝丸山古墳の山、丸山にぶつかる辺り)から「アルペジオ界隈」の三田小山町を通り南東の「入間川(いりあいがわ)」の方へと流れ、そのまま東京湾へと注いでいたそうです。
江戸時代以前は「アルペジオ界隈」には古川が流れていたかも知れない、ということは、単にこの辺りが古川の縁の戦前から昭和にかけての雰囲気を残した街ということだけでなく、一帯に川が流れていたかも知れないということが、アルペジオの変形ジャケットを撮影したことと不思議なリンクをしている感じがあって、ちょっとドキッとしますね。
「赤羽」は「赤埴(あかはに)」で、埴輪の原料となる赤土が採れたところだったようで、都内でも最大規模の前方後円墳「芝丸山古墳」がここに作られた立地条件の一つとなっていたようです。
芝丸山古墳は前方部を南南西に向ける前方後円墳で、標高15メートルの台地の先端部に位置します。
古墳の築造年代は5世紀中頃もしくは4世紀後半と考えられており、墳丘長125mで都内最大級の規模を誇る古墳です。
築造当時は芝周辺は遠浅の海岸で、潟の港を見下ろす位置に古墳があったと考えられます。
後円部頂は少なくとも江戸時代に削られて広場になっていたと考えられており、明治時代に坪井正五郎が発掘調査を行った時には茶店が存在していたそうです。
この周辺にはかっては11基の円墳があったそうです(芝丸山古墳群)。
芝丸山古墳の西側にはかつては9基の円墳があったそうですが、昭和33年に周辺が大規模開発されるまで、まだ数基が残存していたそうです。
自然人類学者坪井正五郎はヨーロッパ留学からの帰国時の船上で芝公園内にある丸山の高さに不自然さを感じたとのことです。
坪井は1898年(明治31年)に発掘調査を行い、埴輪や須恵器などの遺物を発見しましたが後円部が削られていたため埋葬施設は確認できませんでした。
東京都教育庁学芸員の平田健さんによると、出土した寛永通宝は江戸時代に建てられた増上寺の五重塔と同年代のものであることから、当初は五重塔が古墳の上に建造される予定であり、その工事の際に古墳時代の埋葬品が掘り出されてしまったのではないかと推測されています。
幕府の都市計画の一環として、当時の江戸湊の河口であった金杉橋から四之橋までの間で舟入工事が進められ、大名屋敷を中心とした市街地が形成されていきました。大名屋敷への荷の積み下ろしなど、川沿いには荷揚場や河岸が立ち並び、特に一之橋より下流では舟運が盛んに行われていました。(
三田地区の歴史)
『増上寺塔赤羽根』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第37回
上記リンク先は江戸時代の浮世絵師歌川広重が描いた『増上寺塔赤羽根(ぞうじょうじ・とう・あかばね)』(歌川広重「名所江戸百景」第49景)です。
赤羽橋周辺は江戸時代には名所だったようで、茶屋が多く、川の北岸は毎朝魚市で繁盛していたそうです。
また、幾つもの浮世絵の題材になっています。
赤羽根 | 錦絵でたのしむ江戸の名所
江戸時代後期に刊行された江戸の地誌『江戸名所図会』(天保5-7年 [1834-1836] 刊行、斎藤月岑著)には、赤羽川(古川の赤羽橋周辺の別称)と赤羽橋の記述があります。
赤羽川 渋谷川の下流なり。新堀(しんほり)と号(なづ)く。
赤羽橋 同じ流る架を按る赤羽は赤埴の転じたるならんか。此辺(このへん)茶 店多く、河原の北には毎朝肴市(さかないち)立て繁昌の地なり。
(斎藤月岑 1834-1836(天保5-7年)『江戸名所図会』7巻[3]より)
東京タワーこと「高塔」と芝地区
このツイートは2020年9月の小沢健二さんのツイートですが、TV番組『バズリズム』の収録で小沢健二さんがあいみょんさんと東京タワーで対談をした時のものです。
このツイートで触れられた「芝丸山古墳」の辺りは、江戸時代は徳川家の菩提寺であった増上寺の敷地内にあり、浮世絵にも描かれている五重塔が建っていました。
五重塔は三代将軍・家光の時代(1604-1651)に二代将軍・秀忠を供養するために建てられていました。
場所は「芝丸山古墳」の西側、現在のザ・プリンス パークタワー東京の入口東側に建てられていました。
「
増上寺石灯籠」というサイトを運営している伊藤友己氏は以下の論考においてその具体的な場所について考察を行っています(以下参照)。
伊藤友己「増上寺徳川家霊廟の風景(6)五重塔ふたたび&丸山古墳のこと」
(伊藤友己『増上寺石灯籠』より)
五重塔は雷や火災により何度か再建され、明治23年(1890年)に辺りが公園となった際に芝公園に移管されながらも長らくその地に建っていましたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼け落ちてしまいました。
五重塔は増上寺の宗教施設ではなく公園施設の一部であったこともあり、以後再建されることのないまま現在に至ります。
「So kakkoii 宇宙 Shows」のグッズのタグなどに描かれた古川と高塔のロゴデザインでは、「高塔」の記号が地図記号の「高塔」として描かれています。
地図記号の「高塔」はタワーのみならず五重塔のような高い塔も含みます。
物販の展示ポスター内のロゴの説明において、東京タワーを「高い塔」ではなく、わざわざ「高塔」と描いているのも意図的ではないかと思われます。
以前の記事でもこのことは記載しています。
『高い塔』の歌詞では、東京タワーを「直線的な曼荼羅」「神殿のよう」と述べていることから、この楽曲では、東京タワーをかつての電波塔や観光名所というものの枠組みを超えた、どこか仏教的もしくは神秘的な雰囲気を感じさせる東京のシンボルとして「高い塔」を描いているのだと思われます。
その光線は 天井へ昇る 幻
その色彩は 昭和平成をこえて
より透明な 響きを放つ
東京の街に孤独を捧げている
高い塔一つ
それは 直線的な曼荼羅
僕らの魂のあり方 映す
神殿のようだよ
(小沢健二『高い塔』より)
かつて増上寺に存在した五重塔は東京大空襲により無くなってしまいましたが、戦後に「高い塔」=東京タワーがかつての増上寺の境内に築かれたということは非常に興味深いことだと思います。
東京タワーがどこか神秘的なのは、かつての増上寺の境内という立地や、東京のど真ん中に建っているということ、芝公園の森に囲まれているということ、そして東京タワーが当時の多くの人びとの技術と努力によって建てられていることなどがあるのかも知れません。
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増上寺の盆踊りの際の増上寺大殿と東京タワー。2019年7月27日撮影。 『飯倉片町藪蕎麦前』の裏に位置する麻布台ヒルズの超高層ビルはまだ建っていない。 |
今でも増上寺大殿の後ろに煌々と輝く高い塔をみるにつけ、そのことを考えずにはいられません。
(もっとも、現在は麻布台に超高層ビルが建設されており東京タワーの奥にビルがそびえているため、増上寺大殿と東京タワーの2ショット景色を見ることはできませんが。)
浮世絵『増上寺塔赤羽根』の話に戻ります。
絵の五重塔の奥に縦に流れている川が古川です。
古川に架かっている木造の橋が「赤羽橋」です。
絵の手前左側は古川が左にカーブをしていますが、ここが後の名勝「東京恋愛カーブ」です。
古川の左側奥に木々で囲まれた小さな山がありますが、その麓が三田小山町、すなわち「アルペジオ界隈」になります。
三田小山町の由来は「三田の小さな山にある町」、という意味だそうです。
浮世絵で見るとこの辺りの地形がよくわかりますね。
なお、その小さな山には江戸時代の名所のひとつであった、久留米藩有馬家上屋敷の火の見櫓がみえます。
この大名屋敷には水天宮が祀られていたのですが、毎月5日に許された庶民の参拝日には江戸っ子が行列をなすほどの名所だったそうです。
なお、この水天宮は明治期に赤坂、そして人形町に移転しました。
現在も人形町にある水天宮がそれです。
情け有馬の水天宮 | 東京とりっぷ
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