『So kakkoii 宇宙 Shows』で読まれた「古川」の朗読について(草稿)

2022年8月22日月曜日

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この記事は、小沢健二さんの2022年初夏のツアー『So kakkoii 宇宙 Shows』で読まれた「古川」の朗読について書いています。 
また、朗読と関連して実際に古川をおとずれて、その川の流域についても記載してみました。

はじめに

東京タワー展望台から見た赤羽橋の東部に位置する
名勝「東京恋愛カーブ」(写真真ん中を左右に走る明かりのついた道路)と
その首都高速の高架下を流れる古川。左奥には青く光るレインボーブリッジが見える。
2020年10月24日撮影。


2022年6月に行われた小沢健二さんのコンサートツアー『So kakkoii 宇宙 Shows』。
今回のライブでは歌の途中に幾つかの朗読が読まれたのですが、その中で東京の「古川」という川を題材にした話が読まれました。

古川は、東京に住んでいる人でも余り馴染みのない川かも知れません。

しかし古川は実は、東京という都市のど真ん中を流れている川で、小沢健二さんの歌の世界とも密接に関わっている川なのです。

元々私は都市を流れる川がどこを流れているのかを、昔の様子がどうだったかを想像しながら散策したり地図を眺めたりするのが好きで、古川沿いの場所はよく散策をする場所の一つでした。
都会のど真ん中を流れる古川と都市との関係を、その歴史を想像しながら散策をするのが好きなのです。
そういった意味では、古川も自分にとっては物凄く馴染みのある川でした。

なので、小沢健二さんの朗読で古川が取り上げられたことが物凄く嬉しかったのです。

それでいつか小沢健二さんと古川をテーマにまとめてみたい、と思ったのが本記事を書こうと思ったきっかけです。

本記事では東京の古川について、ライブの朗読の内容と古川周辺にある小沢健二さんゆかりの地の話を交えながらまとめてみようと思います。

小沢健二ツアー『So kakkoii 宇宙 Shows』(2022年初夏開催)

2022年6月に1か月6公演に渡って行われた小沢健二さんのツアー『So kakkoii 宇宙 Shows』。
(※6公演には2022年6月13日に行われた『飛ばせ湾岸神戸』を含む)

ライブ中では『大人になれば』が歌われましたが、その直前に読まれた朗読で東京の古川の話が出てきました。

古川の朗読

古川の朗読は『大人になれば』のインストとともに、以下の内容が読まれました。
(細かいところは違っているかもしれないですが、ご容赦ください)


大阪の道頓堀と言えば、川に飛び込む「道頓堀ダイブ」でも知られる有名な川。
東京にも、並行世界では道頓堀のように有名「かも」知れない川がある。

その川は「古川」という。

古川は、新宿で湧き出て渋谷を通り、六本木界隈を通り、東京のど真ん中を流れている。
なのに、全然有名な川ではない。
古川は、コンクリートの高い壁に挟まれて、堀のように低い場所を流れている。
深夜のコンビニが放つ白い光は、古川の水面には届かない。

「都市の明かりが生み出す闇に隠れた汚れた川」

アルペジオの歌詞は、麻布の古川べりから始まる。
あの変形ジャケットの写真も、その界隈で撮影した。
そのアルペジオ界隈で、古川は、右へ左へと、不思議なカーブをする。
首都高速は、建物のない川の上に高架を架けて建設されたらしい。
だから、古川の上には高速が走っている。
アルペジオ界隈で古川が不思議なカーブをすると、首都高速もそれに合わせてカーブする。

そして、最近気がついたのだが、古川の流れが生み出すそのカーブこそが「東京タワーをすぎる 急カーブを曲がり♪(メロディを付けて歌う)」の、あのカーブだったのだ。
30年近く経って、やっとわかった。
首都高速の名勝「東京恋愛カーブ」わら は、川の形だったのだ。

古川の形は、高速道路の形になった。
天現寺橋から古川橋、一の橋、赤羽橋へ。
古川の水の流れと一緒に、高速の車が流れる。
古川は、道頓堀のように有名ではなくても、今の東京を作っている。

千年前、まだ森だった東京を流れていた古川は「ああ、未来では、私の形で街ができるのだな」と思いながら、流れていたのかもしれない。
 
過去の中には、いつも未来が含まれている。 
ということは、今の僕らのする毎日の小さなことは、実は未来を含んでいる。 
現在の一瞬は、絶対に、未来の一部なのだ。

(2022年6月のツアー、小沢健二『So kakkoii 宇宙 Shows』内で歌われた『大人になれば』の直前に読まれた朗読より)


東京のど真ん中を流れているのに、全然有名じゃない川、古川。
しかし、東京恋愛カーブのように、古川の流れは今の東京という街を作っている。
過去の中にはいつも未来が含まれていて、今の僕らのする毎日の小さなことは、実は未来を含んでいる。 
現在の一瞬は、絶対に、未来の一部なのだ。

小沢健二さんはそう我々に語りかけたのでした。

古川の朗読と『So kakkoii 宇宙 Shows』で演奏された曲たちとの関連性について

この古川の朗読は、古川を題材にしながらも『So kakkoii 宇宙』に収録されている曲たちに通じるものがあります。

例えば、朗読の「現在の一瞬は、絶対に、未来の一部なのだ。」の部分は、「汚れた川」として古川を歌詞に取り入れ、「アルペジオ界隈」でシングル盤の変形ジャケットを撮影した『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)』と関連していて、曲そのものが過去を題材としながらも、現在、そして未来を含んでいるように思えます。

また、「古川の形は、高速道路の形になった。」「ああ、未来では、私の形で街ができるのだな」というところは、「古代の未来図は姿を変え続ける」と歌われた『高い塔』と合致します。

「過去の中には、いつも未来が含まれている。ということは、今の僕らのする毎日の小さなことは、実は未来を含んでいる。」という部分は、過去の自分の選択について「もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら? 」と、並行する世界の毎日について思いを馳せ、「意思は言葉を変え 言葉は都市を変えてゆく」「神の手の中にあるのなら その時々にできることは 宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう」と「良いこと」を決意し行動をすることが都市を変えてゆく、と歌っている『流動体について』を想起させます。

また、「今の僕らのする毎日の小さなこと」は『薫る(労働と学業)』全体のテーマとも合致しています。

そして「過去の中には、いつも未来が含まれている。」 という部分は、「そして時は2020 全力疾走してきたよね」「1995年 冬は長くって寒くて 心凍えそうだったよね」と過去を振り返りつつ現状を打破し未来へとつなげていこうとするアルバム『So kakkoii 宇宙』の1曲目『彗星』に合致するように思われます。
なお、この歌はツアーでも重要な曲で、『So kakkoii 宇宙 Shows』のアンコール前の本編の最後に一度歌われ、アンコールの最後に歌詞を一部変え(「そして時は2022」)もう一度歌われました。

そしてもちろん、「東京恋愛カーブ」が歌詞に描かれた『東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー』や「過ぎてゆく日々を ふみしめて僕らはゆく」と歌う『いちょう並木のセレナーデ』『天使たちのシーン』など、今回のライブで歌われた小沢健二さんのこれまでの歌にも関連していると思われます。

そして、この朗読が最も関連すると思われる歌は、その歌のインストをバックに古川の朗読が読まれ、古川の朗読の後に続いて歌唱された『大人になれば』ではないでしょうか。

大人になればと古川の朗読


古川の朗読の後に続いて歌唱された『大人になれば』。

この『大人になれば』のアレンジがとても素敵で。
川がゆったりと流れるような、それに合わせて自分たちもゆっくりと歩みを進めているような、とても心地よいアレンジでした。

間奏で小沢健二さんによって指示された振付「大人ツイスト」を音の流れに身を任せて踊っていると、川の流れに身を任せ、川面に体を浮かせてゆったりと流れていくようで、とても心地よい気分でした。

(ちなみに、『大人になれば』のリズムはずっと一定なので、大人ツイストの振付は間奏だけではなく曲の間じゅうずっと踊ることができました)

「離脱」で曲調が急にゆっくりになると、小沢さんも会場のみんなも一緒になってゆっくりと振付をするのですが、そのさまがなんだか不格好で可笑しくて、同時になんだか時の流れがゆったりとした別の次元に行ったような気分になり、ディスコのチークタイム(スロータイム)で流れるようなゆったりとした妖艶なサクソフォーンの響きがとても良いムードを漂わせていて、とても楽しいひとときでした。

そして朗読の内容と併せて何よりも印象的だったのが、『大人になれば』の以下の歌詞でした。


何千の色 町の上を流れる
何十年も時がゆっくりと進む
僕らは歩くよ どこまでも行くよ
何だか知らないが 白髪になってね
誰かの歌を聴くと 夏の日は魔法 
夏の日は魔法 夏の日は魔法!

(小沢健二『大人になれば』より。歌詞は『So kakkoii 宇宙 Shows』で歌唱されたバージョン。)


こうして聴いてみると、『大人になれば』はこの朗読とセットでなければならなかったし、またこのライブで歌われるべき曲だったのだな、と思います。

なるほど、だから今回のライブのサブタイトルは「夏の日は魔法 '22」だったんですね。

「夏の日は魔法 '22」と『So kakkoii 宇宙 Shows』の古川のロゴ

「古代の未来図が姿を変え続ける」東京の中にあって、そのど真ん中を流れる「古川」、『大人になれば』の歌詞、そして「夏の日は魔法」。

これらは、今回のツアーを構成する重要な要素の一つであったことは間違いありません。

例えば、「夏の日は魔法」というフレーズは、曲中で何度も繰り返されていました。




「夏の日は魔法 '22」のロゴ


また、うさTのうさぎのイラストと小沢健二さんの手書き文字「夏の日は魔法 '22」が組み合わせられたデザインは、スタッフや関係者の入場パスのデザインや、会場の至る所に貼られていたピンクのポスター、ツアーグッズのボーダーT、東京公演限定のTシャツやステッカーなど、グッズや会場内のアイテムにたくさん取り入れられていました。



『So kakkoii 宇宙 Shows』のグッズの品質表示タグや付属のスクラッチタグに
デザインされていた東京恋愛カーブと高塔のロゴ。


また、古川はツアーグッズに付属していたスクラッチタグや服の品質表示タグ、「1993年のオザケン」ポロの背面などにその川の流れがデザインとして描かれていますし(上図)、物販会場には小沢健二さんに関連すると思われる場所を記した、古川を中心とした東京の地図が描かれたポスターが展示されていました。
これらの地図はTシャツやトートバッグにデザインとしてプリントされています。


『So kakkoii 宇宙 Shows 』物販会場で展示されていたポスター
(2022年6月3日パシフィコ横浜で撮影)


物販会場に展示された東京の地図を見てみると、古川は東京のど真ん中を流れているだけあって、小沢健二さんの歌の世界とのかかわりが深いということがよく分かります。

この記事では、小沢健二さんゆかりの地について触れつつ、古川についてまとめてみたいと思います。

渋谷川・古川水系について

東京のど真ん中を流れる古川

『So kakkoii 宇宙 Shows』の古川の朗読では、幾つもの場所の名前が出てきました。
最初に出てきた大阪の道頓堀以外は古川の文脈の中で出てきた地名です。

 古川、新宿渋谷六本木界隈、
 アルペジオ界隈、東京恋愛カーブ、
 天現寺橋、古川橋、一の橋、赤羽橋

小沢健二さんが仰っていた通り、東京の古川は、新宿で湧き出て、原宿、渋谷、恵比寿、麻布(天現寺橋古川橋一の橋アルペジオ界隈)、そして東京タワー周辺(赤羽橋東京恋愛カーブ)を通り、最後には東京湾へと注ぐ、東京のど真ん中を流れる川です。

 ※ちなみに「六本木界隈」には古川の本流は流れていません。
  それにもかかわらず、何故朗読で六本木界隈も古川の流れとして取り入れたのでしょうか。

  その理由は定かではないのですが、青山や神宮外苑辺りから広尾を通り、天現寺橋の辺りで本流の古川と合流 する支流「笄川(こうがいがわ)」が流れていること、小沢健二さんがよく番組に出演する「ミュージックステーション」を放送する「テレビ朝日本社ビル」があること、小沢健二さんがよく利用していたという「六本木WAVE」があったことなどから、小沢健二さんにゆかりのある地として六本木界隈という表現を用いたのかも知れません。

ただ、この川は「古川」という名前ではそれほど有名ではないかもしれません。
もしかしたら、「渋谷川」という名前は聞いたことがあるかもしれません。

或いは童謡「春の小川」を子どもの頃に歌ったことがあるでしょうか。
「春の小川」は渋谷川の支流の渋谷区代々木~富ヶ谷辺りを流れる「河骨川(こうほねがわ)」がモデルだと言われています。
「春の小川」の作詞を担当された高野辰之さんが今の東京都渋谷区代々木三丁目に住んでおり、河骨川に親しんでいたからではないか、という説が有力だそうです。
現在河骨川は暗渠になっていますが、その川の流域は「春の小川 この通り」と書かれた歩道としてその川筋が残されています。

※河骨川の名前の由来「こうほね」は睡蓮科の水草の一種で、湧水地や湧水河川に生息し黄色い花を咲かせます。

なお、この河骨川は東京オペラシティのある初台の近くを源頭としています。
東京オペラシティには『東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアル』がありますが、ここは2012年にライブ『東京の街が奏でる』が行われた場所です。
初台は『強い気持ち・強い愛』の歌詞にも登場する「空へ高く照らし出された高層ビルのすぐ下」を指す西新宿の高層ビル群にほど近い立地でもあります。

東京の地形図からみた古川

「東京都区部」1:25,000 デジタル標高地形図(国土地理院)


まず、東京全体の地形から古川を見ていきます。

上の図は国土地理院のデジタル標高地形図です。
地図の南側に途中で北へと垂直に折れ曲がりながら東西に流れている川が古川です。
地図の左上辺りに青い池が斜めに連なっているところが古川の源流の新宿御苑です。

古川やそこに合流する支流は新宿、原宿、渋谷、恵比寿、六本木、麻布、芝などの新宿区、渋谷区、港区といった東京の都市のど真ん中を流れています。
河口付近では丸く弧を描く首都高速の「東京恋愛カーブ」に沿った流れも見えます。


厳密には、古川は場所によってその名称を変えます。

源頭である新宿御苑から渋谷駅付近の宇田川との合流地点(かつて宮益橋があった宮益坂辺り)までを「隠田川(おんでんがわ)」、宇田川との合流地点から広尾の天現寺橋のある笄川(こうがいがわ)との合流地点までを「渋谷川」、そして笄川との合流地点から東京湾に注ぐ河口までを「古川」と呼びます。

現在は宇田川との合流地点より上流部分、すなわち穏田川と呼ばれた流域は、川ではなく下水道幹線となっており、流域を流れる水は下水として処理され、東京湾岸にある「芝浦水再生センター」に集められてしまうそうです。
そのため、隠田川の水は雨により増水した下水を流す際を除き、隠田川の水の流れが渋谷川に流れることはありません。

また、渋谷川の水は新宿区下落合にある「東京都下水道局 大久保水再生センター」で高度に処理された水を渋谷駅の真下まで引き、流しているそうです。

※水再生センターはいわゆる下水処理場です。

この記事では、小沢健二さんに倣って、隠田川、渋谷川、古川からなる「渋谷川・古川水系」全域を「古川」と呼ぶことにします。
そして流域の場所と小沢健二さんとの関わりについて記述をしつつ、上流から河口までをみていきたいと思います。

まずは古川の源流、穏田川からみていきます。

古川の源流、新宿から始まる隠田川


古川の源流、隠田川は新宿から始まります。

現在の新宿御苑の辺りは幾つもの池がありますが、それは隠田川の源流の名残です。
かつてのような水の流れは無くなってしまいましたが、湧水などにより新宿御苑内の千駄ヶ谷の低い谷筋に水が溜まり、幾つもの池を形成しています。

かつての隠田川は新宿御苑の新宿門にほど近い天龍寺の境内にあった弁天池を源頭とし、新宿御苑の池を含む千駄ヶ谷周辺の谷筋にある幾つもの湧水を湛え、南の原宿や渋谷の方へと注いでいました。

新宿御苑内で配布しているものと同じ地図。
地図の左端の「母と子の森」には古川の源流を再現した小川の流れと2つの池がある。


古川は新宿御苑の上の池、中の池、下の池を通り新宿御苑を抜け暗渠となり、外苑西通りを越えてJRの線路と首都高速4号新宿線を越えて千駄ヶ谷の方へと下っていきます。

東京の暗渠や水路、湧水などに詳しい本田創さんのブログ「東京の水 2005 Revisited 2015 Remaster Edition」によると、1991年の東京都の調査で、新宿御苑には5つの湧水の湧く場所があることが分かったそうですが、出典が分かりませんでした。

古川(隠田川)の最上流部、天龍寺の弁天池の湧水

小沢健二さんがツアーのモノローグで述べたように、古川は新宿から湧き出ています。

新宿御苑の北西部、新宿駅にほど近い甲州街道の傍には「天龍寺」というお寺があります。

天龍寺はかつては新宿区の牛込付近にあり、江戸城の裏鬼門を鎮護する使命を帯びていましたが、天和3年(1683)に牛込の火事で類焼し、同年に現在の内藤新宿へと移ってきたそうです(なお、表鬼門を鎮護していたお寺は上野の寛永寺でした)。
その境内にはかつて「弁天池」という湧水のある池が存在していました。
そこを源頭とし、古川の川の流れは始まっていたそうです。

(国立国会図書館デジタルコレクションより)


江戸時代の切絵図を見てみると、天現寺の境内には大きな池が描かれています。
これが弁天池です。

天龍寺の門。

天龍寺本堂。


現在は境内に池は無いのですが、境内にある井戸は豊富な水を湛えており、現在も地下水は豊富なようです。
『ブラタモリ』2011年3月31日放送「渋谷」より

考古学的にも池の存在は証明されていて、2002年に行われた発掘調査「天龍寺跡1次調査」では、天龍寺の庫裡(くり:寺務所をかねた台所)の裏側(北東)で、東西19.5m、南北8.5m以上の池跡が発見されました(新宿歴史博物館 2004, 野本 2004)。
池は楕円形で中島を伴い、北岸とを繋ぐ土橋がかけられていたそうで、池の3ヵ所で湧水施設と推定される浅い土坑を掘削した跡がみられたそうです。
池の廃絶時期は明治時代初頭の1870年代から1880年代に相当するようで、明治期に寺の一部が民有地化された頃に埋められたものと考えられています。

※出典:新宿歴史博物館 2004 『天龍寺跡』新宿区生涯学習財団新宿歴史博物館学芸課.
    野本賢二 2004「新宿区天龍寺遺跡の調査」『江戸遺跡研究会会報』96:1-9.

この池や新宿御苑の北西部、現在の新宿門の南あたりがかつて古川のはじまり(源頭)だったようです。

ちなみに、新宿御苑内には新宿区と渋谷区の区の境界があるのですが、その境界はかつての古川の源流の流れに沿って引かれています。

内藤大和守下屋敷分水


江戸時代には、現在の新宿駅南口を出たところを東西に走る甲州街道沿いに沿って多摩川の羽村から四谷まで江戸市中に水を運ぶために通された玉川上水から、天龍寺と現新宿高校との境界線に沿って千駄ヶ谷の方に南下する「四谷内藤宿内藤大和守下屋敷分水」が引かれていました。
この分水は明治中頃までには廃止されたようですが、この間古川の最上流部の流路は玉川上水の分水路のような状態になっていたことになります。

      

  
内藤大和守下屋敷分水に架けられていた旭橋の石柱と下水用の石樋の写真。
「あさひはし」「旭橋」「大正十一年」とある。新宿高校の敷地外から撮影。


新宿高校の敷地内には、分水に掛けられた橋の一部が保管されています。
写真のU字形の石樋は玉川上水の上に架けられていた悪水吐(下水の樋)です。
この辺りは天龍寺一面が水浸しになっていたようで、玉川上水を汚さない為に甲州街道と青梅街道が分岐する新宿追分一帯の雨水など下水を千駄ヶ谷の谷の池(恐らく現新宿御苑内の池)に落としていたそうです。


新宿御苑の西の端の外周園路沿いにある
玉川上水の分水路の遺構と思われる堰の写真


新宿御苑の西の端の外周園路沿いには、板を差し込んで堰き止めることができるようなコンクリート製の溝があるのですが、これは玉川上水の分水路の遺構のようなものだそうです。


分水路が外周園路の地下を通り
母と子の森の水の流れに合流する部分


この水は新宿御苑の外周遠路の西側の地下の水路を通り母と子の森の水の流れに合流しているようです。

このように、かつては天龍寺の弁天池の湧水をはじめとする谷筋の湧水に玉川上水からの分水を加えた流れが千駄ヶ谷を東へと進んでいました。


現在は明治通りの「環状第5の1号線(千駄ヶ谷)」の建設(新宿区内藤町から渋谷区千駄ヶ谷五丁目までの延長805mの区間の道路を新設・整備)によりトンネルができ、かつての流れを縦断してしまっています。

環状第5の1号線(千駄ヶ谷)の工事現場の写真。2022年8月2日撮影。

環状5の1号線 道路整備工事のお知らせ。2022年8月2日撮影。


当初の「環状第5の1号線(千駄ヶ谷)」の建設計画では、新宿御苑のラクウショウの森を削り4車線の道路を作る計画でしたが、貴重なラクウショウの森を残すために片側車線を地下に潜らせる計画に変更され、新宿御苑の森を削ることは免れました。

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しかしこの道路の建設により、古川のかつての源流の流れが分断されることとなってしまいました。

新宿御苑は環境省の管轄で、環境省との協議で現計画に変更になったことを考えるときちんと調査した上でのことなのでしょうが、かつての古川の源流の水の流れの途中に天龍寺周辺の豊富な地下水と新宿御苑の森とを分断する形で道路が建設されたことで周囲の環境にどのような影響があるのか、気になります。

古川の源頭辺りには縄文時代から人が住んでいた


なお、この「環状第5の1号線(千駄ヶ谷)」の建設に伴い発掘調査が行われました。
遺跡は「内藤町遺跡」「千駄ヶ谷大谷戸遺跡」と名称が付けられました。

発掘により旧石器時代の石器や縄文時代の竪穴住居3基、縄文早期後半から後期の土器、古墳時代の土師器などが見つかっていることから、この地に古くから人が住んでいたことが分かっています。

(出典:財東京都生涯学習文化財団 東京都埋蔵文化財センタ− 2007 『東京都埋蔵文化財センター調査報告202:内藤町遺跡(環状第5の1号線地区)』(財東京都生涯学習文化財団 東京都埋蔵文化財センタ−

(財)東京都スポーツ文化事業団 東京都埋蔵文化財センタ− 2008 『東京都埋蔵文化財センター調査報告225:千駄ヶ谷大谷戸遺跡 (環状第5の1号線地区)』(財)東京都スポーツ文化事業団 東京都埋蔵文化財センタ− )

(財)東京都スポーツ文化事業団 東京都埋蔵文化財センタ− 2009 『東京都埋蔵文化財センター調査報告233:千駄ヶ谷大谷戸遺跡・内藤町遺跡 (環状第5の1号線地区)』(財)東京都スポーツ文化事業団 東京都埋蔵文化財センタ−)

日本の縄文時代の平均気温は現在よりも2℃ほど高く、温暖で湿潤な気候だったそうです。
現在の内陸部で縄文人が食べた貝類の殻をまとめて捨てた貝塚が現在の内陸部で見つかっていことから、海岸線は現在よりも内陸に食い込んでおり、海面が現在よりも3-5mほど高かったと考えられています。この現象を縄文海進と言います。
縄文海進により東京湾の海岸線は現在よりも内陸に海が迫っていましたが、新宿御苑周辺は西新宿の高層ビル地帯から続く淀橋台地の高台にあり、当時も海からは比較的遠かったのではないかと思われます。
しかしもしここに縄文時代から古川の水が流れ緩い谷を形成していたとするならば、当時から古川の水の流れや川の恵みを求めて、この辺りに人びとが集まっていたのかも知れません。

新宿御苑の成り立ち


新宿御苑のはじまりは徳川家康が江戸に入った翌年の1591年(天正19年)までさかのぼります。

家康の譜代の家臣だった内藤清成は、長年の功労と江戸城西門の警固の功績を認められ、現在の新宿に広大な屋敷地を拝領しました。これが新宿御苑のルーツです。

1872年(明治5年)、官有地となった内藤家屋敷の敷地に日本の近代農業振興を目的とする農業試験場「内藤新宿試験場」が開設されました。

内藤新宿試験場では海外から輸入された多くの植物が試験的に栽培され、また養蚕、牧畜も行われるなど、幅広い研究が行われました。
そして明治7年には内務省の所管となり、新たに教育施設として農事修学所が設置されました。
この農事就学所は1878年(明治10年)に駒場に移り、のちの東京大学農学部などの前身である駒場農学校となりました。

ここは現在の東京大学駒場キャンパスや駒場野公園、駒場公園がある場所です。
1935年に東京大学農学部が本郷に移転する際に駒場キャンパス内には駒場農学校時代の古い建築が今も残っています。
1号館や900番講堂、駒場博物館、101号館は当時

東大農学部の歴史 - 歴史写真館



その後、新宿試験場の業務が三田育種場(現在のJR田町駅のNEC本社ビル付近)に移ると農業試験場としての役目は終わりを迎え、1879年(明治12年)に「新宿植物御苑」として宮内省管轄の皇室の御料地・農園となりました。

そして1906年(明治39年)には敷地の東側の西洋式庭園が完成し「新宿御苑」となり、戦後1949年(昭和24年)に「国民公園新宿御苑」として一般に開放され現在に至ります。

都心の新宿にありながらも広範囲に自然が残っているのはこのためです。
そして、この新宿御苑には古川の最上流の流れの痕跡が池の連なりとして残っています。

※参考:新宿御苑の歴史(新宿御苑HP)

千駄ヶ谷と古川


新宿御苑の南側にはJR千駄ヶ谷駅があります。
千駄ヶ谷は新宿御苑を含む古川の上流域に位置する渋谷区の地名です。
「千駄ヶ谷」の地名の由来は、昔この辺りにはたくさんの萱(かや)が生えていたことと、一日に「千駄の萱」(駄は馬に積む荷物の重さの単位)を積んで運んでいたことからだそうです。

現在はその殆どは閑静な住宅街となっていますが、1964年の東京オリンピック開催を機に東京体育館や国立競技場(地名としては千駄ヶ谷は一部がかかるのみ)などの競技場が建ち、国立能楽堂や津田塾大学などの文化的施設もあります。

また、千駄ヶ谷は将棋ファンの間では将棋会館のある場所としても知られ、すぐ近くの鳩森八幡神社は棋士が足繁く通う将棋の聖地としても有名です。

また、将棋会館にほど近い鳩森八幡神社には都内に現存する富士塚では最古のものである「千駄ヶ谷の富士塚」があり、江戸時代にはここから富士山が見えたそうです。

近年では千駄ヶ谷と北参道駅周辺とを合わせて「ダガヤサンドウ」と呼ばれているそうで、現在おしゃれなお店のあるスポットとしても注目されている地域だそうです。

千駄ヶ谷の北側と西側の境はかつて古川が流れていたところに引かれており、また新宿区と渋谷区の区境にもなっています。その北側の境が新宿御苑の上の池、中の池、下の池で、千駄ヶ谷は渋谷区なので、新宿御苑は新宿区と渋谷区に跨っています。

新宿御苑内の「ひょうたん池」とその跡地の小川の流れ


本田創さんによると、「内藤大和守下屋敷分水」が明治時代に廃止されてからは水の流量が少なくなり、玉川上水から内藤屋敷への分水路のあった谷には「ひょうたん池」と呼ばれる池が広がっていたそうです。

【1-2】渋谷川上流(1)「千駄ヶ谷」(新宿御苑)の源流

しかしこのひょうたん池は、戦時中に掘られた防空壕の残土で埋め立てられてしまったとのことで、現在は残っていないようです。

しかし、近年まで内藤大和守下屋敷分水の遺構と道を挟んだ反対側の地面から水が滲み出して流れていたそうで、その水の流れがひょうたん池の跡地に近年まで小川の流れを形成していたそうです。

2022年の夏に雨が降った翌日にその場所を確認してみると、確かに水が滲み出していました。(要検討・写真が必要)

新宿御苑北西部の湿地帯、ラクウショウの森



新宿御苑のラクウショウの巨木の森(2021年6月撮影)

新宿御苑のラクウショウの巨木の森(2020年8月撮影)


新宿御苑の新宿門を右に進み外周園路沿いを歩いていくと、ラクウショウの巨木の森に遭遇します(2022年8月現在は改修中で森には入れません)。
ラクウショウはアメリカ原産のスギ科の落葉高木で、沼地や湿地などに生育しています。


新宿御苑にラクウショウが植えられたのは明治20〜30年頃だそうで、樹齢は120年以上、樹高は30m近くあるそうです。
沼地や湿地を好むラクウショウが植えられ、ここまで大きく育っているということからも、明治時代当時からこの地は湿地帯であったことが想定されます。

先述したように、このすぐ西側に建設している道路「環状第5の1号線(千駄ヶ谷)」は、当初の予定ではこのラクウショウの森を削る計画でしたが、環境省と国土交通省との協議により、道路の片側を地下に潜らせることで、新宿御苑の土地を保ったまま道路を建設することになりました。

母と子の森


ラクウショウの森から更に南側は木々の生い茂る森となっており、「母と子の森」と名付けられています。
母と子の森は子どもたちが自然とのふれあいを楽しめるようにと、1985年に造られた自然観察フィールドです。
初夏になるとフィールドの東側にある母と子の森の入口辺りから人工的に水が流され、整備された小さな川の流れをみることができます。なお、この水は冬の間は流れていません。

母と子の森の入口付近にある水が湧き出ているところ。
2022年7月初旬撮影。


ただ、この水の水源については、もしかしたらこの辺りの豊富な地下水を利用しているのかも知れません。

そう思ったのは、新宿御苑の北側に作られた玉川上水を再現した水の流れの事例からです。
この玉川上水を再現した水の流れは、地下を並走している幹線道路の新宿トンネル付近から豊富に滲み出ている地下水を利用しているそうです。
この辺りも地下水が豊富であり、その豊富な地下水を水源としている可能性はあるのではないかと考えられます。


人工的に水を流しているところから整備された小川を追う


人工的に水を流しているところから整備された小川の流れを追うと、すぐそばに半夏生(ハンゲショウ)が生い茂る池が確認できます。
池にはフナやカメなどが生息し、時にアオサギなどの野鳥も訪れます。



母と子の森の「森の池」の写真。2022年8月撮影。


池の下流の整備された川の流れの様子。
動画の最後の奥に映る茂みの部分が「森の池」。


この母と子の森の「森の池」は、「母と子の森」の中にかつてあった戦後に作られた子供プール跡地を、生き物が住むことができるような池として復元再生したところだそうです。
(「母と子の森とは?」新宿御苑森の会HPより)

となると、この池の前後の川の流れも人工的に整備された可能性がありそうです。

また、この「森の池」より下流の「ラクウショウの森」の近く、先述した玉川上水からの分水「内藤大和守下屋敷分水」が合流していた辺りの谷地の底と思われる小川の流れは草木や水辺の植物が繁茂している小川となっており、整備されているという感じはないことから、この小川は古川の源流の水の流れをある程度保持しているのではないか?そう思っていました。

しかし、この「内藤大和守下屋敷分水」が合流していた辺りは、玉川上水の分水が廃止されてからは、谷地に水が溜まった「ひょうたん池」となっていたところだそうで、池は戦前に防空壕を掘った時に出た土で埋め立てられたそうです。だとすると、この辺りも非常に自然に近い形ではありますが、人工的に整備され川の流れを復元した可能性は否めません。
現在はハンゲショウやドクダミが生い茂っており、清らかな小川が流れています。


母と子の森を流れるラクウショウの森にほど近い小川の流れ。
小川にはハンゲショウやドクダミなどが生い茂る。
2022年7月上旬撮影。

母と子の森を流れるラクウショウの森にほど近い小川の流れ。上の写真よりも少し下流。
写真の右側辺りから玉川上水の分水、内藤大和守下屋敷分水が合流していたと思われる。
2022年7月上旬撮影。


この写真の辺りに先述のひょうたん池があったのではないかと思われます。
この流れは母と子の森の南側にある池へと繋がっています。


母と子の森の南側にある池の様子。動画の右側が上流。
動画の左側に落ち葉やごみが入るのを防ぐ青いネットで覆われた排水口があり、
ここから暗渠を通り日本庭園のある上の池へと水が流れる。
2022年7月上旬撮影。

母と子の森の南側の池の端の水が吸い込まれているところ。
2022年7月上旬撮影。


この池に集められた水は母と子の森の南側にある池の端から地下を流れ、新宿御苑内の日本庭園にある「上の池」へと続いています。

母と子の森の西側の小川や池、そしてその先の新宿御苑内の「上の池」から「中の池」、「下の池」は千駄ヶ谷の緩い谷の底に位置し、かつての古川の源流の流れを構成していたと思われます。

明治42年(1909年)に大日本帝國陸地測量部により制作された 「1万分1地形図(東京近傍)四谷」には、完成直後の新宿御苑内の池や川の様子が詳細に描かれています。
この地図は何度か改訂が行われ、のちの改訂版では宮内省管轄であった国防上の理由から新宿御苑は白く塗りつぶされています。

大日本帝國陸地測量部(1909-10), 「1万分1地形図(東京近傍)」
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1437272

上の池


上の池は現在の日本庭園にある池です。
新宿植物御苑の時代(明治12年(1879)〜明治39年(1906))に鴨池として造成された池で、当時は「動物園」として狩猟局が管理を行っていたそうです。

母と子の森の池から地下を通って新宿御苑内の日本庭園にある上の池に注ぐ辺り。
写真真ん中の池の縁に丸い出水口が見える。


母と子の森の池の水は地下の水路を通り、上の池の北側にある丸い出水口から上の池へと注ぎます。

かつて養魚池だった池と日本庭園の小川


上の池と中の池の間には幾つか池があるのですが、これらの池はかつて養魚池だったそうです。
この養魚池だった池の北側には石でつくられた小川があります。
この小川の上流は湿っているだけなのですが、途中から徐々に水が現れているところがあることから、どこかから湧水が滲み出ているものと思われます。
また、小川の流路の途中にはパワースポットとして知られる清正の井のような掘抜き井戸に似た水を湛えた穴も確認出来、ここから水が湧き出ているのではないかと考えられます。

上の池から中の池へ


上の池からかつて養魚池だった池は水路で繋がっており、池の水は新宿御苑旧御凉亭(台湾閣)の畔の池の脇から水路を通り中の池へと流れていきます。




上の池から中の池への水の流れ。
この日は殆ど干上がっていた。
2022年7月上旬撮影。

中の池


中の池は絶えずたくさんの水を湛えています。
現在は水面に何もない綺麗な池ですが、少し前までは蓮が一面に生い茂る池でした。

中の池を下流側から上流側へと向いて撮った写真。
2021年4月中旬撮影。

中の池から下の池へと流れる水の流れ。
2021年4月中旬撮影。


中の池から下の池へは南側に水路があり水が流れています。

下の池


下の池は中の池に比べるとひっそりとしており、また木々に囲まれているため、時折聞こえるそばを走るJR中央線の電車の音が無ければ、ここが都会のど真ん中であることを忘れる程です。

下の池を上流から下流に見た写真。
2021年4月中旬撮影。


下の池の東側の下流の水の流れ。
池の水は堰き止められていて直接は流れていない。
2021年4月中旬撮影。

下の池の東側の下流の水の流れ。
池の水は堰き止められていて直接は流れていない。
2022年7月上旬撮影。

下の池から古川上流の流れへ


下の池は新宿御苑の南東の端で終わります。
下の池は東側で堰き止められていますが、そのすぐそばで水が湧き出ているような場所が確認できます。

下の池の下流にある湧水1。2022年7月上旬撮影。

下の池の下流にある湧水2。2022年7月上旬撮影。


湧き出た水は更に東側へと流れており、自然に近い状態の小川を形成しています。
下の池の水は堰き止められているため、雨などで池の水が増水しない限り水が溢れることはありません。
従って、これは池の水が滲み出ているのではなく、地下から水が湧き出ているのだと思われます。
この水は凄く透き通っていて、とても綺麗な水でした。


下の池の下流の水の流れ。
その後この水は新宿御苑の出口で暗渠となり玉川上水の余水路と合流する。
手前に見えるのは木を模したコンクリート製の橋「擬木橋」の欄干で、国内最古のもの。
2021年4月中旬撮影。


これより下流の水の流れをこの湧水が担っているとすると、この湧水の流量はかなりのものです。この湧水を実際に初めて見た時、現在でも古川の源流として湧き水の流れが途切れることなく続いているということを強く感じ、何だか胸が熱くなりました。



しかし、先述した通りこれらの水は渋谷川の流れに合流することはなく、最終的には渋谷駅の辺りで下水として処理され、「芝浦水再生センター」へと送られてしまうのです。

新宿御苑とプラタナス


新宿御苑には明治時代に農業試験場「内藤新宿試験場」が開設され、様々な植物が輸入され、栽培され、品種改良されてきました。

その中には『流動体について』発売日に朝日新聞に掲載されたエッセイ「言葉は都市を変えてゆく」に書かれた「ハイレゾ・イチゴ」の元となった「フクバイチゴ」もあります。

「とちおとめ」や「あまおう」・「女峰」・「とよのか」など、いま日本で食べられている多くのイチゴが「福羽イチゴ」から品種改良されたもので、新宿御苑は現在の栽培いちごの祖先というべき存在です。

イチゴの祖先「フクバイチゴ」(新宿御苑HPより)

『流動体について』発売当日に掲載された朝日新聞の広告「言葉は都市を変えてゆく」
(小沢健二公式HP「ひふみよ」より)


また、『フクロウの声が聞こえる』の歌詞に登場し、今や日本の街路樹として各地に植えられているプラタナスも、新宿御苑で育てられ、ここから全国に広まりました。

フクロウの声が聞こえる
大きな幹を揺らすプラタナス
いつか絶望と希望が一緒にある世界へ

ー小沢健二『フクロウの声が聞こえる』歌詞より

プラタナスは和名をモミジバスズカケの木と言います。
紅葉のような葉っぱの形と、その実が山伏が着る茶色の服「篠懸(すずかけ)」についている房の形に似ていることから名づけられました(この房の名は正しくは「結袈裟」というそうですが)。

モミジバスズカケの木は、イギリスで作られたスズカケノキとアメリカスズカケノキを掛け合わせた交配種で、明治時代に日本に輸入されたものが新宿御苑で育てられたものが初めてです。

新宿御苑で育てられたプラタナスの苗は全国にいきわたり、街路樹として各地に植えられています。

新宿御苑内にはイギリス式庭園のプラタナス並木をはじめとする多くのプラタナスをみることができます。
新宿御苑内には輸入された明治時代に植えられたプラタナスの巨木が幾つか存在します。

小沢健二さんと新宿御苑


小沢健二さんは1997年、雑誌『asayan 1998年1月号』のインタビュー時に新宿御苑で撮影を行っていました。
広々とした芝生が広がる「風景式庭園」や「中の池」、下の池の北側にある「フランス式整形庭園のプラタナス並木」、中の池の南斜面につつじが植えられている「つつじ山」などで撮影をしている様子が雑誌に掲載されています。

『asayan 1998年1月号』の写真。撮影場所は新宿御苑の芝生が広がる風景式庭園。


左:『asayan 1998年1月号』の写真。右:写真が撮られた同じ場所、
新宿御苑の中の池を下流側から上流側に向けて撮影。


左:『asayan 1998年1月号』の写真。右:写真が撮られた同じ場所。
撮影場所はフランス式整形庭園のプラタナス並木。
右の写真は2021年7月中旬撮影。


『asayan 1998年1月号』の写真。場所は新宿御苑の中の池の南側にあるつつじ山。
ベンチは新しくなり、ベンチの真後ろの丸い木は無くなっているが、
丸く刈られたつつじの木が今でも沢山ある。
右の写真は2021年7月下旬撮影。


記事によると、ちょうど『ある光』を録り終えた直後のインタビューだったようです。
名曲『ラブリー』を新潟までの新幹線で書いた話(1994年のツアー『Disco To Go』新潟公演時)や『指さえも』の歌詞の話、上海の「上海市体育館」で上海市交響楽団とオーケストラコンサートを演った際(『ドリーム・シンフォニー in 上海』)、アジアのノリを感じ、また自身の歌が好評で刺激を受けた話などが語られています。

偶然と言えば偶然なのですが、NYCへと旅立つ直前の1997年時点で『フクロウの声が聞こえる』にも登場するプラタナスの並木や『アルペジオ』の歌詞で描かれた古川の源流の中の池で撮影を行っていたというのは驚きです。

玉川上水と隠田川



新宿御苑の北側は江戸時代に江戸市中に飲料水を送るための玉川上水が流れていました。

新宿御苑の東側の境界線沿いには、玉川上水が四谷大木戸から地下水道へ入る前に余った水を流していた「玉川上水余水吐跡」があり、かつてはこの水が隠田川の方にも注いでいました(上記リンク参照)。

玉川上水余水吐が玉川上水と分岐するところから下流を眺めた写真。
2021年1月上旬撮影。

新宿内藤町周辺の坂。2021年1月上旬撮影。

玉川上水余水吐の辺りは途中から坂になっていますが、この辺りは千駄ヶ谷の支谷で、余水吐はこの支谷を利用しています。

玉藻池。左手前側に見える石の辺りから余水吐からの水が流れていた。
2022年8月中旬撮影。

玉藻池に引いていた余水吐からの水路の一つ。2022年8月下旬撮影。


なお、新宿御苑の大木戸門近くにある玉藻池は、安永元年(1772年)に余水を利用して完成した内藤家の庭園『玉川園』の一部で、池はその谷頭にあたります。
余水吐から池に水を引き、また余水吐の方に水を戻していたそうです。

玉川上水余水吐の水はかつては隠田川の方にも注いでいました。

そのため、明治時代頃までの(原宿の現キャットストリート付近を含む)隠田川の水量は豊富で、流路には水車小屋が沢山あり、多くの産業が栄えていたそうです。

例えば、玉川上水余水吐跡付近は三菱鉛筆の創業の地で、余水吐の豊富な水を利用して水車を動力とする三菱鉛筆の工場(当時の名称は眞崎鉛筆製造所)がありました。
余水吐にほど近い多武峯内藤神社の内藤児童遊園内には1887年から1916年までこの地に三菱鉛筆の工場があったことを記した「鉛筆の碑」があります。


[鉛筆の碑の写真]


玉川上水余水吐は1960年代初め頃までは水が流れていたそうですが、余水吐は1964年の東京オリンピックの際に隠田川が暗渠化されたのと同時期に暗渠化されたそうです。
これは現西新宿にあった、玉川上水からの水を使用していた淀橋浄水場が1965年に無くなり、玉川上水の水道としての役割が無くなったことと関係しています。


玉川上水は多摩川の上流の羽村から水を取り入れる取水堰を設けて四谷大木戸まで43kmもの距離に渡って築かれた水路(開渠)です。

多摩川は小沢さんが学生時代を過ごした川崎北部を流れる小沢健二さんゆかりの川ですが、その多摩川の上流から引かれた水が江戸市中を潤し、また江戸/東京の中心を流れる古川の水を湛えていたというのは何だか感慨深いものがありますね。

暗渠となった隠田川〜新宿御苑を出て千駄ヶ谷や原宿を流れ渋谷まで〜

新宿御苑を出て千駄ヶ谷へ

新宿御苑を出た水の流れは暗渠となり、新宿御苑の南方を東西に走るJRの線路辺りで、同じく暗渠となった玉川上水余水吐と合流します。

JRの線路の一部がレンガ造りになった壁の写真。2023年3月中旬撮影。


その合流部へ行くと、JRの線路の壁の一部がレンガ造りになっているのが確認できます。
これはかつて隠田川にかかっていたレンガ造りの橋の跡だそうです。

JRの線路と首都高速4号新宿線を越えた隠田川は、国立競技場の西側を通って南下し、原宿のキャットストリートへと向かいます。

以前は国立競技場の西側の暗渠部分は都立明治公園の一部で、隠田川のあったところは南北に細長い公園になっていました。

しかし、明治公園は新国立競技場ができるにあたって一帯が整備され、新国立競技場の敷地の一部となってしまいました。
そして競技場の北西部の高台から約70mの区間だけですが隠田川の流れを人工的に再現し、暗渠ではなく地上を水が流れるようになりました。

これには「NPO法人渋谷川ルネッサンス」という非営利団体が関わっているようです。
「渋谷川ルネッサンス」は、「渋谷川を太陽の下を流れる川として再生・復活させる事業及びそれに関連する事業を行い、広く世界の人々に対して水と川の重要性の認識を高め、今後の川に関する諸活動を推進することを目的として活動しているNPO法人」だそうです。


ちなみに、都立明治公園は新国立競技場の南側に場所を移設し、現在新国立競技場と調和する公園施設とし再整備中で、2023年10月に供用開始予定でしたが、予定が長引いており、2024年1月31日まで工事が行われる予定だそうです。

この都立明治公園の再整備は、東京都として初めて都市公園法に基づく公募設置管理制度(Park-PFI)を活用することによって実現したそうです。
事業者は東京建物、三井物産、日本工営、西武造園、読売広告社、日テレ アックスオンで構成される「Tokyo Legacy Parks」だそうです。


この後隠田川はほぼ外苑西通り沿いを下り、「ジャガー・ランドローバー青山」の建物の北側の道を通り南西に下っていきます。

なお、渋谷区障害者福祉センターから渋谷駅の宮益坂交差点の西側まではキャットストリート「旧渋谷川遊歩道路」という名称がつけられていますが、道中にはかつて隠田川にあった橋の親柱の跡を幾つか見ることができます。

原宿

キャットストリート

『泣いちゃう』のMVでも登場する原宿のキャットストリート(旧渋谷川遊歩道路)は、隠田川の流れに沿った道です。

隠田川は今は上に道路が走る暗渠としてキャットストリートの下をひっそりと流れていて、現在は河川としてではなく、東京都下水道局の管理する「千駄ヶ谷幹線」という名前の下水道になっています。
(※『泣いちゃう』MVは公式では現在非公開になっています。)


[参道橋の親柱の写真]

キャットストリートと表参道が交差する地点には「参道橋」と書かれた橋の親柱が残っています。これはかつてここに川があり、橋がかけられていた名残です。


[参道橋の下の写真]

表参道はキャットストリートよりも高い位置を通っていて、表参道がキャットストリートを分断する形になっていますが、かつてはこの部分に橋があり、下のキャットストリートに隠田川が流れていたのです。

表参道の通りは大正時代の明治神宮の造営に伴って出来た道で、現表参道駅の交差点から明治神宮に向かってなだらかな坂となる直線の道が作られました。

ちなみにキャットストリートの南東側、現「エルメス表参道店」の入口は立派な石垣になっていますが、これは大正時代に表参道を作った際に築かれた石垣の名残だそうです。
この辺りは隠田川が作り出す河岸段丘で小高くなっていたため、なだらかな参道を作るために地形が削られ、削った道の両側が石垣で覆われたそうです。
表参道は今では参道と同じ高さに高級ブティックの建物が並んでいますが、かつてはこのような石壁が表参道の両側を覆っていたそうです。


[隠田商店街の看板]

なお、キャットストリートの商店街の名前は「隠田商店街」と言います。
この辺りには江戸時代より隠田川が集落の中心を流れる隠田村という村があり、その地名が川の名前や商店街の名前として今も残っています。


[冨嶽三十六景《穏田乃水車》の写真]

穏田川は玉川上水の余剰水を受けていたために豊富な水量を誇り、往時には、よく知られた「穏田の水車」をはじめ、いくつもの水車掛けが見られたといいます。

明治神宮から隠田川に流れる支流の跡、ブラームスの小路


[ブラームスの小径の写真]

竹下通りの裏手にあるフォンテーヌ通り(ブラームスの小径)は明治神宮の南池の方から流れる小川の暗渠が通っており、隠田橋付近、現在ラルフローレン表参道店がある辺りで隠田川と合流していました。
この源頭はパワースポットとしても知られる「清正井(きよまさのいど)」です。

また、原宿の竹下通りと明治通りとの交差点の角にはユニバーサルミュージックジャパンの建物「神宮前タワービルディング」があります。

当時アイコンから特定していた方々がおられましたが、2019年秋にSNS上で行われたアルバム発売を記念して行われた『So kakkoii 宇宙 リスニングパーティー』はユニバーサルミュージック内で行われていたようです。

また、現在ユニバーサルミュージックジャパンの建物がある場所は、1995年5月26日に「小沢健二のオールナイトニッポン」の生放送が収録された「Aux Bacchnales (オーバカナル)」があった場所でもあります。

ミヤシタパーク(宮下公園)からのんべい横丁へ



[ミヤシタパークの写真]

宮下公園の東側の道は南西に通っており、公園は南へ行くにしたがって細くなっています。
宮下公園が細くなったその先に昭和の雰囲気を残す飲み屋街、のんべい横丁がありますが、この南西に通る道が暗渠化した隠田川です。
のんべい横丁の建物の建ち方をみると、暗渠となった川の通りには入り口がなく、かつてここに川があったことを想像させます。


[のんべい横丁の写真]


宮下公園やのんべい横丁の形も、実は川の流れが関係しているということが分かるかと思います。

隠田川は宮下公園付近で現在の明治通りを横切り、ミヤシタパークの東側に沿う形で南流し、渋谷駅の北、宮益坂下交差点西方(現・みずほ銀行およびリンツチョコレート前付近)にかつて架かっていた宮益橋の直前で西から流れる宇田川と合流し、隠田川は渋谷川と名前を変えます。


小沢健二さんが2020年の夏にツイートをしたこのミヤシタパークの写真のところが、ちょうど明治通りと隠田川が合流する場所になります。
写真で言うとミヤシタパークの手前の道路沿い(明治通り)を右から左の方(渋谷駅方面)へと隠田川は流れています。

個人的には、この場所で撮影したというのも、変わらない川の流れと、再開発された宮下公園、つまり変わりゆく都市とをリンクさせるような、何かそんな意図的なものを感じます。

PPP(パブリックプライベートパートナーシップ制度)を採用し、官民連携によってつくられたミヤシタパーク。

30年間の定期借地が終わり三井不動産がその権利を失うころ(定期借地権は更新できない)、この試みはどう捉えられ、この公園はどう変わっていくのでしょう。

小沢健二さんが言われるように、「ホームレスたち、あのスケーターたち、怪しげな恋人たち、怪しげなションベンの匂い」は、ここに帰ってくるのでしょうか。

その前に、30年後に自分たちが生きていることすら分かりませんが...。

渋谷川〜渋谷から恵比寿・広尾まで〜

渋谷

隠田川は渋谷駅の地下で渋谷のセンター街の地下を流れる宇田川と合流し、渋谷川と名称を変えます。

2018年のツアー『春の空気に虹をかけ』や2022年のツアー『So kakkoii 宇宙 Shows』のチケット一般販売の際に広告柱が出された渋谷駅の地下通路は、まさにこの宇田川と隠田川の合流地点付近でした。

この場所はどちらの広告の際も、ある種呪術的、マジックリアリズム的とも言えるような、物凄く不思議な演出がなされていました。

2018年2月に『春の空気に虹をかけ』チケット一般販売に合わせてこの場所に広告柱が出された際には、BalenciagaのHoodieに身を包んだ小沢健二さんが柱の間に吸い込まれるGIF動画がひふみよトップページで公開されました。


また2020年1月に『So kakkoii 宇宙 Shows』の一般販売に合わせてこの場所に再び広告柱が出された際には、アルバム収録曲『薫る』の曲に合わせて子どもたちが広告柱の周りをぐるぐると回っていました。


この地下通路は多くの路線を繋ぐ通路となっており、絶えず多くの人たちが行き交う場所です。

小沢健二さん自身は特に言及はしていないのですが、本記事の最初に紹介した『So kakkoii 宇宙 Shows』のライブ中に読まれた古川の朗読の際、古川の上を高速道路が通り、現在川の上を車が走っていることを感慨深く述べていたことを考えると、宇田川と隠田川の合流地点で絶えず人びとが行き交っているこの地下通路にも同じようなことを感じていたのではないでしょうか。

人びとが多く行き交う地下通路の傍を流れる古川は、近年再開発され人びとでにぎわう「渋谷ストリーム」の辺りで渋谷川として地上に姿を現し、南へと下ります。
しかし、その姿は川とは言い難く、「コンクリートの高い壁に挟まれて、堀のように低い場所を流れて」います。

恵比寿

現在の「渋谷川」は渋谷ストリーム北辺の「稲荷橋」地点を起点とし、広尾の「天現寺橋」で笄川が合流するところで「古川」と名前を変えます。

渋谷川に架かる「稲荷橋」が化粧直し 再開発に合わせ整備

渋谷川の流域は、1986年から老朽化した護岸を包み込む形でコンクリート護岸による河川改修が行われているため、深い大きな溝のような外観を呈しています。

[渋谷川の古い護岸]

渋谷川をよく見てみると、崩れかけた古い護岸が所々に残っています。

また、代官山の辺りまでは東横線の線路跡として遊歩道はありますが、それより南側では川沿いには一部を除いて道はなく、川に沿って家やビルがひしめくように立ち並んでいるため、橋から覗くなどの方法でしかその姿を見ることはできません。

古川〜広尾から芝公園を経て東京湾に注ぐまで〜

広尾

広尾の「天現寺橋」で渋谷川は終わり、それより下流は「古川」と名前を変えます。

天現寺橋の辺りでは北の青山や六本木辺りから流れる笄川(こうがいがわ)が南下し合流しています。
その合流地点より下流を「古川」と呼びます。
ちなみに、広尾の渋谷区と港区の区境はこの笄川に沿って走っています。

なお、「天現寺橋」の名前は近くに「天現寺」というお寺があることに由来します。


天現寺橋の辺りから明治通りが古川沿いを走りますが、天現寺を過ぎフランス大使館の裏に差し掛かる辺りで南側から首都高速道路の高架(首都高速2号目黒線)が古川の河川上を通るようになるため、古川は更に見えにくい川となってしまいます。


麻布

「麻布」という地名はとても広く、麻布の名が付いている麻布十番は勿論、青山から三田までを含む区域で、戦前の「麻布区」に相当する地域です。

古川の朗読でも「古川橋」「一の橋」「赤羽橋」といった古川に架かる橋の名前が幾つか出てきました。

麻布で古川はクランクを描くように流れていきます。
「古川橋」の辺りで北上し、「一の橋」でまた西へと流れ、「赤羽橋」より下流で「東京恋愛カーブ」を描きその後はまっすぐ東進し、東京湾へと注ぎます。

ちょうど『So kakkoii 宇宙 Shows』のグッズのロゴに描かれた部分からが麻布になります。

古川橋


[古川橋の写真]


古川橋は、それまで西から東へと流れていた古川の流れが北へと進路を変える場所に位置する橋です。

古川橋の歴史はそれほど古くなく、少なくとも江戸時代にはありませんでした。
元々は私設の橋だったものを、のちに東京市に編入したのが始まりだそうです。

東京都道415号高輪麻布線が古川と交わるところに架かっています。
古川橋のすぐそばにある明治通り「環状5号線」と東京都道415号高輪麻布線が交わる古川橋交差点は、渋谷駅辺りから渋谷川・古川に沿って走っている明治通りの起点となる交差点です。

古川橋のある明治通りと東京都道415号高輪麻布線の古川橋交差点は明治通りの起点となっています。
明治通りは東京都港区南麻布二丁目の古川橋交差点から、渋谷区、新宿区、豊島区、北区、荒川区、台東区、墨田区を経由して江東区夢の島に至る総延長約33.3kmの道路のことです。
1923年(大正12年)の関東大震災後の都市計画に基づいて、東京初の環状道路となる「環状5号線」として整備されました。

1923年(大正12年)の関東大震災後の復興のため、1927年(昭和2年)の都市計画に基づき、東京初の環状道路となる「環状5号線」として整備された[2]。明治通りの山の手を走る区間のうち、渋谷駅付近から現在の神宮前交差点(渋谷区神宮前)に至る部分は、渋谷川に沿う古道を整備するかたちで1928年(昭和3年)に完成、また、神宮前交差点から新宿に至る部分の完成は1930年(昭和5年)であった[3]。東京の環状道路として最初に整備された明治通り(環状5号線)は、都市計画に基づく道路整備中に太平洋戦争が始まったため、整備が一時棚上げ状態となったが、終戦後は復興のため区画整備と一体となって再開された[4]。
かつては数多くの都電(4・5・7・8・34系統)が走る主要な停留所・乗り換え地点として有名であり、現在でも都営バス(都06,品97)の古川橋バス停がある。

一の橋


[一の橋の写真]


古川は一の橋辺りで直角を描き、東へと流れます。
一の橋の西側には麻布十番があり、今では地下鉄の麻布十番駅があり商店街がにぎわいをみせています。

麻布十番の名前の由来は諸説あるようです。江戸時代に古川の改修工事を行った際の「10番目の工区だったから」とか、「10番目の土置き場だったから」という説。
また、1698年(元禄11年)に五代将軍徳川綱吉の白金御殿を建築する際に土運びをする労働者が一番から十番の集団に編成され、この地域の人々が十番目に当たっていたことに由来するという説もあります。

麻布十番は『強い気持ち・強い愛』制作時に筒美京平さんとよく食事をしていた「クチーナヒラタ」があった場所で、小沢健二さんにも馴染みの深い場所です。

麻布十番は芸能人が足しげく通う店が多く今では高級なイメージがありますが、庶民的な下町の雰囲気を残す街です。
街の大部分は古川沿いの低地に属しており、古くは麻布村という村に属する低湿地帯だったそうで、低地側は湿気が多く人の住みにくい場所だったようです。
古川の河川改修により干拓、開拓を行うことで街が開発され、明治時代には繁華街となっていたそうです。
古川を挟んで一の橋を渡った先、三田小山町の街の様子は麻布十番と全く異なり、関東大震災や戦災を免れた古い街並みが残る区域になります。
三田小山町に住んでいた方の話をネットで検索すると、どちらかと言えば裕福な人たちが住む地域ではなく、庶民が暮らす下町の雰囲気を残す街並みだったようです。

ただ、一の橋から赤羽橋にかけては戦前と戦後に幹線道路整備と古川の河川整備が同時に行われており、江戸以来の町割が区画整理され、町の様子が大きく変わっているようです(森記念財団編『古川物語』より)。

また、慶応大学三田キャンパスが近いことから、古くは大学生向けの下宿が多く、学生が住む街でもあったようです。


芝公園


芝公園は港区の芝地区にある都立公園です。

江戸時代、この辺り一帯は徳川家の菩提寺のひとつである増上寺の境内でしたが、明治時代に増上寺大殿周辺の敷地は公園となりました。
公園になった際に芝公園の敷地は芝公園地1-25号地の計25区画に振り分けられました。
ちなみに、現在増上寺のある場所は芝公園地2号地、東京タワーのある場所は芝公園地20号地だそうです。

江戸時代の地図と現在の地図とを比べてみると、現在の道路の割り振りが江戸時代の増上寺の様子を反映しているのが分かります。

現在増上寺の東側には芝大神宮が位置していますが、元々芝大神宮は現在増上寺がある場所にあったそうです。
社伝によると鎮座は寛弘2(1005)年で、元々は赤羽橋の近く、小山神明という所にあったが、慶長3(1598)年徳川家康が麹町にあった増上寺を現在の地に移設した際に芝大神宮を移設したそうです。
芝大神宮は天照皇大御神(伊勢神宮内宮の主祭神)、豊受大御神(伊勢神宮外宮の主祭神)を奉る神社で、「大江戸の大産土神(おおうぶすなかみ)」「関東のお伊勢さま」として江戸や関東近郊の人びとに信仰されていたようで、参道には茶屋や吹き矢などの出店や芝居小屋が立ち並び賑わっていたそうです。

芝大神宮の社伝によると、古くは米を盛った様子に似た山の形をしていることから飯倉山と呼ばれた芝丸山古墳に伊勢神宮を勧請して創建されたと伝えられています。

飯倉の地名の由来は諸説ありますが、古くからこの地は飯倉御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園で、伊勢神宮に穀物を奉納するための倉があったとする説があり、そのため周辺地域は飯倉の名がついているという説があります。

アルバム『So kakkoii 宇宙』のティーザー映像『小沢健二飯倉片町藪蕎麦前』の場所「飯倉片町」もその飯倉という地名に由来しているそうです。

東京恋愛カーブ


「東京恋愛カーブ」は赤羽橋から下流の芝公園付近の首都高速が描くカーブのことです。
この首都高速のカーブが何故出来ているかというと、朗読にもあった通り、この辺りは古川の上に首都高速が走っているため、古川の流れが描く自然のカーブのまま首都高速自体もカーブを描いています。
小沢健二さんの楽曲『東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー』の歌詞で「東京タワーをすぎる 急カーブを曲がり」とありますが、その急カーブが「東京恋愛カーブ」です。

「東京恋愛カーブ」を作る古川のカーブ自体は自然のままだそうですが、その前後の川の流れは江戸時代の工事により人為的に作られたものだそうです。

「一の橋」から河口までは「東京恋愛カーブ」を除き比較的まっすぐな川の流れですが、この辺りは「新堀川」とも言われており、船運が盛んだった江戸時代(元禄年間)に船を入れられるように掘り割り(地面を掘ってつくった水路)を築き河川のルートを変えたところのようです。

それまでの古川の下流は三田小山町(アルペジオ界隈)辺りで2つに分かれていて、現在の東京恋愛カーブの流れは細い支流だったそうです(三田図書館 1971『港区近代沿革図集〈芝・三田・芝浦〉』より)。

もう一本の本流側は東京恋愛カーブの手前辺り(芝丸山古墳の山、丸山にぶつかる辺り)から「アルペジオ界隈」の三田小山町を通り南東の「入間川(いりあいがわ)」の方へと流れ、そのまま東京湾へと注いでいたそうです。


江戸時代以前は「アルペジオ界隈」には古川が流れていたかも知れない、ということは、単にこの辺りが古川の縁の戦前から昭和にかけての雰囲気を残した街ということだけでなく、一帯に川が流れていたかも知れないということが、アルペジオの変形ジャケットを撮影したことと不思議なリンクをしている感じがあって、ちょっとドキッとしますね。

赤羽橋


「赤羽橋」は国道1号桜田通りが古川と交わるところに架かる橋です。
すぐ上流の中ノ橋と赤羽橋の間の河岸地は赤羽河岸と呼ばれていたそうで、魚商人が毎朝ちょっとの間立売をしていたことから「ちょろ河岸」とも呼ばれていたそうです。
「赤羽」は「赤埴(あかはに)」で、埴輪の原料となる赤土が採れたところだったようで、都内でも最大規模の前方後円墳「芝丸山古墳」がここに作られた立地条件の一つとなっていたようです。

芝丸山古墳

芝丸山古墳は前方部を南南西に向ける前方後円墳で、標高15メートルの台地の先端部に位置します。
古墳の築造年代は5世紀中頃もしくは4世紀後半と考えられており、墳丘長125mで都内最大級の規模を誇る古墳です。
築造当時は芝周辺は遠浅の海岸で、潟の港を見下ろす位置に古墳があったと考えられます。
後円部頂は少なくとも江戸時代に削られて広場になっていたと考えられており、明治時代に坪井正五郎が発掘調査を行った時には茶店が存在していたそうです。

この周辺にはかっては11基の円墳があったそうです(芝丸山古墳群)。
芝丸山古墳の西側にはかつては9基の円墳があったそうですが、昭和33年に周辺が大規模開発されるまで、まだ数基が残存していたそうです。

自然人類学者坪井正五郎はヨーロッパ留学からの帰国時の船上で芝公園内にある丸山の高さに不自然さを感じたとのことです。
坪井は1898年(明治31年)に発掘調査を行い、埴輪や須恵器などの遺物を発見しましたが後円部が削られていたため埋葬施設は確認できませんでした。
東京都教育庁学芸員の平田健さんによると、出土した寛永通宝は江戸時代に建てられた増上寺の五重塔と同年代のものであることから、当初は五重塔が古墳の上に建造される予定であり、その工事の際に古墳時代の埋葬品が掘り出されてしまったのではないかと推測されています。

幕府の都市計画の一環として、当時の江戸湊の河口であった金杉橋から四之橋までの間で舟入工事が進められ、大名屋敷を中心とした市街地が形成されていきました。大名屋敷への荷の積み下ろしなど、川沿いには荷揚場や河岸が立ち並び、特に一之橋より下流では舟運が盛んに行われていました。(三田地区の歴史

『増上寺塔赤羽根』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第37回

上記リンク先は江戸時代の浮世絵師歌川広重が描いた『増上寺塔赤羽根(ぞうじょうじ・とう・あかばね)』(歌川広重「名所江戸百景」第49景)です。

赤羽橋周辺は江戸時代には名所だったようで、茶屋が多く、川の北岸は毎朝魚市で繁盛していたそうです。
また、幾つもの浮世絵の題材になっています。

赤羽根 | 錦絵でたのしむ江戸の名所

江戸時代後期に刊行された江戸の地誌『江戸名所図会』(天保5-7年 [1834-1836] 刊行、斎藤月岑著)には、赤羽川(古川の赤羽橋周辺の別称)と赤羽橋の記述があります。


赤羽川 渋谷川の下流なり。新堀(しんほり)と号(なづ)く。
赤羽橋 同じ流る架を按る赤羽は赤埴の転じたるならんか。此辺(このへん)茶 店多く、河原の北には毎朝肴市(さかないち)立て繁昌の地なり。

(斎藤月岑  1834-1836(天保5-7年)『江戸名所図会』7巻[3]より)


東京タワーこと「高塔」と芝地区



このツイートは2020年9月の小沢健二さんのツイートですが、TV番組『バズリズム』の収録で小沢健二さんがあいみょんさんと東京タワーで対談をした時のものです。

このツイートで触れられた「芝丸山古墳」の辺りは、江戸時代は徳川家の菩提寺であった増上寺の敷地内にあり、浮世絵にも描かれている五重塔が建っていました。

五重塔は三代将軍・家光の時代(1604-1651)に二代将軍・秀忠を供養するために建てられていました。
場所は「芝丸山古墳」の西側、現在のザ・プリンス パークタワー東京の入口東側に建てられていました。

増上寺石灯籠」というサイトを運営している伊藤友己氏は以下の論考においてその具体的な場所について考察を行っています(以下参照)。

伊藤友己「増上寺徳川家霊廟の風景(6)五重塔ふたたび&丸山古墳のこと」
(伊藤友己『増上寺石灯籠』より)


五重塔は雷や火災により何度か再建され、明治23年(1890年)に辺りが公園となった際に芝公園に移管されながらも長らくその地に建っていましたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼け落ちてしまいました。
五重塔は増上寺の宗教施設ではなく公園施設の一部であったこともあり、以後再建されることのないまま現在に至ります。

「So kakkoii 宇宙 Shows」のグッズのタグなどに描かれた古川と高塔のロゴデザインでは、「高塔」の記号が地図記号の「高塔」として描かれています。
地図記号の「高塔」はタワーのみならず五重塔のような高い塔も含みます。
物販の展示ポスター内のロゴの説明において、東京タワーを「高い塔」ではなく、わざわざ「高塔」と描いているのも意図的ではないかと思われます。


[物販の展示ポスター内のロゴの説明]


以前の記事でもこのことは記載しています。



『高い塔』の歌詞では、東京タワーを「直線的な曼荼羅」「神殿のよう」と述べていることから、この楽曲では、東京タワーをかつての電波塔や観光名所というものの枠組みを超えた、どこか仏教的もしくは神秘的な雰囲気を感じさせる東京のシンボルとして「高い塔」を描いているのだと思われます。


その光線は 天井へ昇る 幻
その色彩は 昭和平成をこえて
より透明な 響きを放つ

東京の街に孤独を捧げている
高い塔一つ
それは 直線的な曼荼羅
僕らの魂のあり方 映す
神殿のようだよ

(小沢健二『高い塔』より)


かつて増上寺に存在した五重塔は東京大空襲により無くなってしまいましたが、戦後に「高い塔」=東京タワーがかつての増上寺の境内に築かれたということは非常に興味深いことだと思います。

東京タワーがどこか神秘的なのは、かつての増上寺の境内という立地や、東京のど真ん中に建っているということ、芝公園の森に囲まれているということ、そして東京タワーが当時の多くの人びとの技術と努力によって建てられていることなどがあるのかも知れません。


増上寺の盆踊りの際の増上寺大殿と東京タワー。2019年7月27日撮影。
『飯倉片町藪蕎麦前』の裏に位置する麻布台ヒルズの超高層ビルはまだ建っていない。


今でも増上寺大殿の後ろに煌々と輝く高い塔をみるにつけ、そのことを考えずにはいられません。
(もっとも、現在は麻布台に超高層ビルが建設されており東京タワーの奥にビルがそびえているため、増上寺大殿と東京タワーの2ショット景色を見ることはできませんが。)


浮世絵『増上寺塔赤羽根』の話に戻ります。
絵の五重塔の奥に縦に流れている川が古川です。
古川に架かっている木造の橋が「赤羽橋」です。

絵の手前左側は古川が左にカーブをしていますが、ここが後の名勝「東京恋愛カーブ」です。

古川の左側奥に木々で囲まれた小さな山がありますが、その麓が三田小山町、すなわち「アルペジオ界隈」になります。
三田小山町の由来は「三田の小さな山にある町」、という意味だそうです。
浮世絵で見るとこの辺りの地形がよくわかりますね。

なお、その小さな山には江戸時代の名所のひとつであった、久留米藩有馬家上屋敷の火の見櫓がみえます。
この大名屋敷には水天宮が祀られていたのですが、毎月5日に許された庶民の参拝日には江戸っ子が行列をなすほどの名所だったそうです。
なお、この水天宮は明治期に赤坂、そして人形町に移転しました。
現在も人形町にある水天宮がそれです。

情け有馬の水天宮 | 東京とりっぷ

古川の河口(東京恋愛カーブから東京湾へ)


芝園橋、将監橋、金杉橋、新浜橋、浜崎橋、新浜崎橋から東京湾へと注ぎます。

将監橋。2022年2月26日撮影。

将監橋。首都高速が古川の真上を走る。2022年2月26日撮影。



芝園橋、将監橋、金杉橋辺りの古川を覗くと船が沢山着けられています。

芝園橋。2022年2月26日撮影。

芝園橋。欄干は大正15年1月に古川に架けられた当時のまま。2022年2月26日撮影。

芝園橋の上を斜めに走る首都高速の高架。東京恋愛カーブのカーブの部分。
2022年2月26日撮影。


古川に停泊する船。金杉橋から古川の上流を見る。川の流れが真っ直ぐなのが分かる。
奥に見える橋は
将監。2022年2月26日撮影。

古川の河口に架かる新浜崎橋(手前)と浜崎橋(奥)。
新浜崎橋の上の高架は羽田空港へ向かう東京モノレール。
2022年11月中旬撮影。


古川の河口に架かる新浜崎橋(手前)と浜崎橋(奥)。
新浜崎橋の上の高架に羽田空港へ向かう東京モノレールが走っている。
2022年11月中旬撮影。


浜崎橋の上を首都高速の高架が、新浜崎橋の上をモノレールのゆりかもめが走っています。

古川の河口の両隣には「日の出桟橋」(南側)と「竹芝桟橋」(北側)という船の発着場があります。

日の出桟橋(日の出ふ頭)


「日の出桟橋」からは墨田川(浅草)、お台場、豊洲、有明など東京湾のウォーターフロントを周遊する水上バスが出ています。

日の出桟橋をゆく屋形船。2022年11月中旬撮影。

日の出桟橋をゆくクルーズ船。2022年11月中旬撮影。



2022年11月に日の出桟橋をおとずれたところ、日の出桟橋のターミナルの建物がリニューアルされ「Hi-NODE」という商業施設が出来ていました。
2019年8月にオープンしたそうです。

Hi-NODE


昔は客船ターミナル以外は広い駐車場と食堂、コンビニがあるくらいの倉庫街の一角といった場所だったのですが、広い芝生とお洒落なカフェやレストランが幾つか出来ていて、近所に住んでいる方々なのでしょうか、おもちゃをいっぱい入れた大きな箱を持ってきているお洒落な格好をした子連れの方たちが芝生で遊んでいました。

竹芝桟橋(竹芝ふ頭)


「竹芝桟橋」は伊豆・小笠原諸島への玄関口として利用されています。
竹芝はこのところ近年再開発が目覚ましい地域でもあり、竹芝ふ頭再開発事業によりオフィスビル、ホテル、レストランなどが海上公園と一体的に整備されています。

(1)都市再生ステップアップ・プロジェクト(竹芝地区)

伊豆諸島から竹芝へと帰ってきた高速船「セブンアイランド大漁」。
高速走行中は船体が浮いているのが特徴。2022年11月中旬撮影。

竹芝から伊豆諸島からへと向かう高速船「セブンアイランド大漁」。
2022年11月中旬撮影。

レインボーブリッジを通過する高速船「セブンアイランド大漁」。
レインボーブリッジの奥に羽田空港があるので飛行機が飛んでいるのがよく見える。
2022年11月中旬撮影。

竹芝の大型船の発着場。2022年11月中旬撮影。

竹芝の大型船の停泊場。大型船は右側の運河側に停泊する。奥にはスカイツリーが見える。
奥に見える橋は大きなアーチが築地大橋でその奥は小さな2つアーチの勝鬨橋。
右側の高層マンションは勝どき(一部奥に月島も)のマンション群。
橋の右側のビルは佃の高層マンション群。
2022年11月中旬撮影。


竹芝からは晴海、豊洲、お台場、レインボーブリッジ、有明といった小沢健二さんゆかりの地が一望できるので個人的にもお勧めのスポットです。

夕方に竹芝から東京湾岸を望む。2022年11月中旬撮影。


夜に竹芝から東京湾岸を望む。2022年11月中旬撮影。

竹芝からお台場を望む。紫に光るのがお台場のフジテレビ社屋。
2022年11月中旬撮影。

竹芝から晴海、有明を望む。
左の黒く見えるのが晴海ふ頭、晴海ふ頭の奥に見えるビル群が有明ガーデン周辺。
豊洲PITの場所は見切れているが左側。
2022年11月中旬撮影。

竹芝からレインボーブリッジを望む。
奥の明かりは大井ふ頭で、そのさらに奥に羽田空港がある。
2022年11月中旬撮影。


東京湾岸


東京湾岸は多くの埋め立て地があり、いずれも小沢健二さんのゆかりの土地です。

湾岸の埋め立て地に向かうレインボーブリッジは首都高速11号台場線が通っており、その台場線は『東京恋愛専科』MVに登場します。
また、台場線の下には新橋から豊洲まで東京湾の埋め立て地を巡るモノレール「ゆりかもめ」が通っています。




晴海埠頭は『いちょう並木のセレナーデ』の歌詞に登場します。

レインボーブリッジを渡った先のお台場は2016年のツアー『魔法的』の会場であったZepp diversity TokyoやZepp Tokyoがある場所です(Zepp Tokyoは2022年1月1日に閉館)。

また、レインボーブリッジや晴海埠頭辺りは2017年の配信番組『Tokyo, Music &Us 2017-2018』「小沢健二と満島ひかり」で『ラブリー、東京湾上屋形船は雨』を歌った場所です。


豊洲は2019年11月の『飛ばせ湾岸』2日目の会場の豊洲PITのある場所です。

更に向こう側には『飛ばせ湾岸』1日目の会場の新木場STUDIO COASTがあった新木場があります。

有明は2022年6月25日・26日に『So kakkoii 宇宙 Shows』東京公演が行われた「有明ガーデンシアター」のある場所です。

また、2021年11月に配信が行われた『キツネを追ってゆくんだよ』の撮影スタジオは湾岸の埋め立て地、辰巳と仰っていましたね。
辰巳は有明と新木場に挟まれた埋立地です。



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