2019年4月4日にYouTubeユニバーサルミュージック公式アカウントに公開された『Ozawa Kenji Iigurakatamachi Azabudai Yabu Soba Mae 小沢健二飯倉片町藪蕎麦前』。
これは2019年11月13日に発売された新作アルバム『So kakkoii 宇宙』のティーザー動画だったのですが、
何故小沢健二さんはこの場所を選んだのか。
ということがとても気になりました。
ナタリーで行われた『小沢健二 AMA 新作アルバムと失われた強気強愛の謎』で語られたことなどを踏まえて、考察しました。
動画について
まず、『小沢健二飯倉片町藪蕎麦前』の動画はどんなものなのか?
簡単に振り返ってみました。
動画は小沢健二さんとAwesome City ClubのPorinさんの優しいハミング、そして雑誌『Olive』でお馴染みの市川実日子さんによる幻想的なハープ、そして無機的で力強いビートが印象的なドラムマシンの音による、シンプルかつクールな音楽が流れます。
なお、この曲はアルバム収録曲の特別バージョンだったのですが、『So kakkoii 宇宙』発売直前の2019年11月11日・12日の新木場Studio Coast・豊洲Pitでのライブ『飛ばせ湾岸2night』での初披露により、この曲が『失敗がいっぱい』だったことが判明しました。
動画は早くなったりゆっくりになったり、どこかぎこちないようなカメラワークで、映像自体も不思議な雰囲気を醸し出しており、どこか怪しげです。
最初に首都高速都心環状線飯倉トンネルの南方を向くシーン。
カメラが左を向き飯倉片町地下歩道を東に歩くと、新作アルバムに収録される透明でカラフルな曲のタイトル文字がぶら下がっています。
例えば、歩道の途中には水溜りのような鏡があり、そこには鏡に映った『フクロウ(オリジナルバージョン)』の文字が。
そして『流動体』『神秘的』『アルペジオ』。
当時未発表だった新曲『薫る』の文字も見えます。
その先のトンネルの出口の右側には、市川実日子さんが使用したと思われるアイリッシュハープが椅子の上に置かれています。
カメラはトンネルの先の町の向こう側、「麻布台三丁目」の町の方を向いたかと思うと、トンネルの出口の直前で左に曲がり地上へと上り、飯倉片町交差点の方へ。
交差点では、歩道を東から西へと横切る、ピンクボーダーのセーターを着た小沢健二さんが登場します。
後のナタリー『小沢健二 AMA 新作アルバムと失われた強気強愛の謎』の会話で、交差点にあるパン屋さん「メゾン・ランドゥメンヌ麻布台」で「超絶うまいクロワッサン」を買った後にここを横切った設定ということが分かりました。
その後カメラは外苑東通りを右に向き、東側の「麻布台藪蕎麦」や「メゾン・ランドゥメンヌ麻布台」の方向を向きます。
外苑東通りの向こう側には東京タワーが見えます。
カメラが下に向くと横断歩道の傍らに置いてあったネオンサインが点灯。
そこには"2019 COMING (RELATIVELY) SOON"の文字が書いてありました。
新作アルバムは(比較的)早く出ます、ということのようです。
(しかし、実際アルバムが出たのはその7か月後でした。)
動画が公開された際、私は飯倉片町交差点近くで計画されている再開発事業
「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」のことが頭に浮かびました。
もしかしたらこの動画はこの場所を差しているのではないかと思いました。
まず、動画が公開された週末に現地に行き、その現状をみました。
動画のタイトルにもなっている「飯倉片町藪蕎麦」とは、動画の「飯倉片町交差点」にある蕎麦屋「麻布台藪蕎麦」のことを差しています。
また、「飯倉片町交差点」は、東京都港区麻布台の飯倉交差点を起点とする「外苑東通り」と首都高速都心環状線沿いを走る「麻布通り」との交差点です。
周辺地域は現在「麻布台三丁目」という名前ですが、かつては「飯倉片町」という町名でした。住居表示の実施によりその町名は消滅してしまいました。
そしてその「麻布台」の名の入った再開発事業が「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」なのです。
「虎ノ門・麻布台地区」の範囲は非常に広く、住宅が密集していました。
また、この地域は非常に歴史ある地域であり、江戸時代に由来のある谷や坂があり、小説家永井荷風の愛した土地でもありました。
そして何よりも、そこに住む人びとの、地に足の付いた暮らしがありました。
それらの街並みが完全に均され、谷や坂がなくなり、数年だけですが日本一の高さとなる超高層マンションやショッピングモールが聳え立ち、憩いの場となる公園などの施設ができる予定だそうです。
「飯倉片町」は「いいぐらかたまち」と読みます。
土地は町の北端の外苑東大通り沿いが一番高く、南に行くにつれて低くなっています。
これは南に古川があり、川が作った谷に向かって低くなっているのが原因です。
飯倉というのは古くからある地名で、古くは伊勢神宮の直轄領である屯倉を置いており、一帯はその跡地だったというのがその由来のようです。
町の成立は江戸以前とも言われ、高台上の古街道である飯倉町通り(現在の外苑東通り)の南側(道の片側のみ)に面していた片側町であったため「片町」と呼ばれたようです。
江戸時代の町域は、北端が現在の外苑東通り沿いで、西端が麻布十番の方にまで続く「永坂」でした。
1872年(明治5年)、町屋に南部の元下野大田原藩邸、元越後長岡藩邸他幕臣の邸地を併せて、現在の麻布台三丁目の全域と六本木五丁目18番の一部を含む町域になり、名称も「麻布飯倉片町」となりました。
これにより町域の境は東端が現ロシア大使館横の「狸穴坂」、南端は「鼬坂」や「植木坂」「鼠坂」となりました。
当時は南側の高台に邸宅が多く、北部の飯倉町通り沿いに商家が若干あったそうです。
飯倉片町は1945年の東京大空襲でかなりの部分を焼失しましたが、一部戦災を逃れており、昭和初期に築かれたモダンな建物「和朗フラット」壱号館・弐号館・四号館が現存しています。
現在は「飯倉片町」の名前は、残念ながら住所としては残っていません。
現在の麻布台三丁目1番と六本木五丁目18番の北の一部がかつての飯倉片町に当たります。
かつての飯倉片町の範囲は、首都高速都心環状線ができたことにより町が2つに分断されました。
首都高速都心環状線は、1964年の東京オリンピックに伴い整備された道路です。
住居表示の実施により、1947年(昭和42年)には西側の一部が六本木五丁目になりました。
更に1976年(昭和51年)にはその他が麻布台三丁目に編入となり、「飯倉片町」の地名は消滅しました。
現在は動画の舞台になった「飯倉片町交差点」や周辺のビルの名称に僅かに名前が残っているのみです。
「虎ノ門・麻布台地区」はかつて「(麻布)我善坊町」と呼ばれていました。
この一帯は、南は外苑東大通り辺りをピークとする南側の尾根と北の仙石山とに囲まれた東西に長いすり鉢状の窪地になっており、「我善坊谷」と呼ばれていました。
町の真ん中を東西に「落合坂(おちあいざか)」が走っており、西から東に向かって下っています。
町の東端は北と南からそれぞれ下っていき谷底で合流する「行合坂(ゆきあいざか)」があり、落合坂へと繋がっています。
我善坊町の町名はこの谷の名前から付けられました。
「我善坊谷」の由来については複数の説があるようです(『麻布区史』『港区史』より)。
江戸期は下級武士の与力・同心の組屋敷地であったそうです。
(江戸時代の切絵図には「御手洗手与力同心御縄地」とある。)
彼らは江戸の町の治安を守る役職であり、今でいう警察署長や警察官に当たります。
一方、我善坊谷の南側や北側の高台は大名屋敷となっていました。
明治5年に我善坊谷の名を取って「我善坊町」となりました。
窪地のため、中小住宅地となったそうです。
太平洋戦争時には落合坂の両側の住宅は建物疎開となり取り壊されましたが、1945年4月15日・16日に戦災を受けました。
(この時に戦災を受けたのは麻布区市兵衛町、狸穴町、我善坊町、新網町1・2丁目、永坂町、坂下町、網代町、宮下町。飯倉片町は1月27日に戦災を受けたとのことです。*1)
戦後も再び中小住宅地となり、現在に至ります。
本章の内容は2019年5月にツイートをしたものです。一部加筆、修正を加えています。
小沢健二さんの動画「小沢健二飯倉片町藪蕎麦前」について。
彼は恐らくこの一帯の再開発事業「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」のことを指していると思われます。
[参考]
◆小沢健二飯倉片町藪蕎麦前(YouTube)
◆小沢健二 AMA 新作アルバムと失われた強気強愛の謎(音楽ナタリー)
◆国家戦略特区「都市再生特別地区(虎ノ門・麻布台地区) 都市計画(素案)の概要」(PDF)
https://kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/tokyoken/tokyotoshisaisei/dai11/shiryou1.pdf
◆飯倉片町と虎ノ門・麻布台地区再開発区域、各要所との関係を記した地図
当時未発表だった新曲『薫る』の文字も見えます。
その先のトンネルの出口の右側には、市川実日子さんが使用したと思われるアイリッシュハープが椅子の上に置かれています。
カメラはトンネルの先の町の向こう側、「麻布台三丁目」の町の方を向いたかと思うと、トンネルの出口の直前で左に曲がり地上へと上り、飯倉片町交差点の方へ。
交差点では、歩道を東から西へと横切る、ピンクボーダーのセーターを着た小沢健二さんが登場します。
AOPモンテギュ新シリーズ | maisonlandemainejp
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後のナタリー『小沢健二 AMA 新作アルバムと失われた強気強愛の謎』の会話で、交差点にあるパン屋さん「メゾン・ランドゥメンヌ麻布台」で「超絶うまいクロワッサン」を買った後にここを横切った
その後カメラは外苑東通りを右に向き、東側の「麻布台藪蕎麦」や「メゾン・ランドゥメンヌ麻布台」の方向を向きます。
外苑東通りの向こう側には東京タワーが見えます。
カメラが下に向くと横断歩道の傍らに置いてあったネオンサインが点灯。
そこには"2019 COMING (RELATIVELY) SOON"の文字が書いてありました。
新作アルバムは(比較的)早く出ます、ということのようです。
(しかし、実際アルバムが出たのはその7か月後でした。)
動画と再開発事業との関連が気になった経緯について
動画が公開された際、私は飯倉片町交差点近くで計画されている再開発事業
「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」のことが頭に浮かびました。
虎ノ門・麻布台プロジェクト|主要プロジェクト|森ビル株式会社
「Modern Urban Village」をコンセプトとして誕生する「虎ノ門・麻布台プロジェクト」は、国際都市の洗練さと、小さな村のような親密さを兼ね備えた、世界に類のない、全く新しい街です。 ...
もしかしたらこの動画はこの場所を差しているのではないかと思いました。
まず、動画が公開された週末に現地に行き、その現状をみました。
動画のタイトルにもなっている「飯倉片町藪蕎麦」とは、動画の「飯倉片町交差点」にある蕎麦屋「麻布台藪蕎麦」のことを差しています。
また、「飯倉片町交差点」は、東京都港区麻布台の飯倉交差点を起点とする「外苑東通り」と首都高速都心環状線沿いを走る「麻布通り」との交差点です。
周辺地域は現在「麻布台三丁目」という名前ですが、かつては「飯倉片町」という町名でした。住居表示の実施によりその町名は消滅してしまいました。
そしてその「麻布台」の名の入った再開発事業が「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」なのです。
「虎ノ門・麻布台地区」の範囲は非常に広く、住宅が密集していました。
また、この地域は非常に歴史ある地域であり、江戸時代に由来のある谷や坂があり、小説家永井荷風の愛した土地でもありました。
そして何よりも、そこに住む人びとの、地に足の付いた暮らしがありました。
それらの街並みが完全に均され、谷や坂がなくなり、数年だけですが日本一の高さとなる超高層マンションやショッピングモールが聳え立ち、憩いの場となる公園などの施設ができる予定だそうです。
飯倉片町の由来について
「飯倉片町」は「いいぐらかたまち」と読みます。
土地は町の北端の外苑東大通り沿いが一番高く、南に行くにつれて低くなっています。
これは南に古川があり、川が作った谷に向かって低くなっているのが原因です。
飯倉というのは古くからある地名で、古くは伊勢神宮の直轄領である屯倉を置いており、一帯はその跡地だったというのがその由来のようです。
町の成立は江戸以前とも言われ、高台上の古街道である飯倉町通り(現在の外苑東通り)の南側(道の片側のみ)に面していた片側町であったため「片町」と呼ばれたようです。
江戸時代の町域は、北端が現在の外苑東通り沿いで、西端が麻布十番の方にまで続く「永坂」でした。
1872年(明治5年)、町屋に南部の元下野大田原藩邸、元越後長岡藩邸他幕臣の邸地を併せて、現在の麻布台三丁目の全域と六本木五丁目18番の一部を含む町域になり、名称も「麻布飯倉片町」となりました。
これにより町域の境は東端が現ロシア大使館横の「狸穴坂」、南端は「鼬坂」や「植木坂」「鼠坂」となりました。
当時は南側の高台に邸宅が多く、北部の飯倉町通り沿いに商家が若干あったそうです。
和朗フラット四号館
和朗フラット四号館は東京・港区に、昭和11年(1936年)に建てられた木造・洋館風の賃貸集合住宅です。
飯倉片町は1945年の東京大空襲でかなりの部分を焼失しましたが、一部戦災を逃れており、昭和初期に築かれたモダンな建物「和朗フラット」壱号館・弐号館・四号館が現存しています。
現在は「飯倉片町」の名前は、残念ながら住所としては残っていません。
現在の麻布台三丁目1番と六本木五丁目18番の北の一部がかつての飯倉片町に当たります。
かつての飯倉片町の範囲は、首都高速都心環状線ができたことにより町が2つに分断されました。
首都高速都心環状線は、1964年の東京オリンピックに伴い整備された道路です。
住居表示の実施により、1947年(昭和42年)には西側の一部が六本木五丁目になりました。
更に1976年(昭和51年)にはその他が麻布台三丁目に編入となり、「飯倉片町」の地名は消滅しました。
現在は動画の舞台になった「飯倉片町交差点」や周辺のビルの名称に僅かに名前が残っているのみです。
虎ノ門・麻布台地区の歴史
「虎ノ門・麻布台地区」はかつて「(麻布)我善坊町」と呼ばれていました。
この一帯は、南は外苑東大通り辺りをピークとする南側の尾根と北の仙石山とに囲まれた東西に長いすり鉢状の窪地になっており、「我善坊谷」と呼ばれていました。
町の真ん中を東西に「落合坂(おちあいざか)」が走っており、西から東に向かって下っています。
町の東端は北と南からそれぞれ下っていき谷底で合流する「行合坂(ゆきあいざか)」があり、落合坂へと繋がっています。
我善坊町の町名はこの谷の名前から付けられました。
「我善坊谷」の由来については複数の説があるようです(『麻布区史』『港区史』より)。
- 座禅をする坊がいたことからついたという「座禅坊」説
- 徳川二代将軍秀忠の夫人達子(法名「崇源院」)の葬儀の際、野辺の送りが六本木町周辺で行われ、当地に龕前堂(がんぜんどう)が置かれたためと言う説
江戸期は下級武士の与力・同心の組屋敷地であったそうです。
(江戸時代の切絵図には「御手洗手与力同心御縄地」とある。)
彼らは江戸の町の治安を守る役職であり、今でいう警察署長や警察官に当たります。
一方、我善坊谷の南側や北側の高台は大名屋敷となっていました。
明治5年に我善坊谷の名を取って「我善坊町」となりました。
窪地のため、中小住宅地となったそうです。
太平洋戦争時には落合坂の両側の住宅は建物疎開となり取り壊されましたが、1945年4月15日・16日に戦災を受けました。
(この時に戦災を受けたのは麻布区市兵衛町、狸穴町、我善坊町、新網町1・2丁目、永坂町、坂下町、網代町、宮下町。飯倉片町は1月27日に戦災を受けたとのことです。*1)
戦後も再び中小住宅地となり、現在に至ります。
虎ノ門・麻布台地区の現況 [Twitterより]
小沢健二@iamOzawaKenjiさんの動画「小沢健二飯倉片町藪蕎麦前」について— ペジのすけ(越前平°次之助 麻布六本木町饂飩坂前)🐢🍊🌈✨ھ (@Qroocklyn) May 23, 2019
彼は恐らくこの一帯の再開発事業「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」のことを指していると思われます。#ozkn #小沢健二 #飯倉片町藪蕎麦前 pic.twitter.com/P5qxixCjzs
小沢健二さんの動画「小沢健二飯倉片町藪蕎麦前」について。
彼は恐らくこの一帯の再開発事業「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」のことを指していると思われます。
[参考]
◆小沢健二飯倉片町藪蕎麦前(YouTube)
◆小沢健二 AMA 新作アルバムと失われた強気強愛の謎(音楽ナタリー)
小沢健二 AMA 新作アルバムと失われた強気強愛の謎 - 音楽ナタリー 特集・インタビュー
小沢健二 AMA 新作アルバムと失われた強気強愛の謎
◆国家戦略特区「都市再生特別地区(虎ノ門・麻布台地区) 都市計画(素案)の概要」(PDF)
https://kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/tokyoken/tokyotoshisaisei/dai11/shiryou1.pdf
◆飯倉片町と虎ノ門・麻布台地区再開発区域、各要所との関係を記した地図
Google マイマップに飯倉片町周辺の各要所との関係を記載しました。
灰色部分が再開発区域です。
そうそう、同時に聞きたいなと思って。岩手と港区と鹿児島とかで
―小沢健二
ナタリー「小沢健二 AMA 新作アルバムと失われた強気強愛の謎」
その中に「小沢健二 AMA 新作アルバムと失われた強気強愛の謎」で話していた
「岩手」(青) と「鹿児島」(紫) 出身者に関係する場所が含まれています。
岩手出身者は「横川省三」。
鹿児島出身者は「伊東祐亨」。
岩手 ー 港区立横川省三記念公園
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2019年4月上旬の「港区立横川省三記念公園」の様子。 桜が満開だった。 |
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同日の「港区立横川省三記念公園」。 園内には横川省三の碑があった。 |
横川省三は南部盛岡藩(現岩手)出身の元朝日新聞記者です。
日清戦争では海軍従軍記者を、日露戦争では陸軍により編成された特別任務班の一員として東清鉄道を爆破しロシア軍への物資の輸送路を遮断する任務を遂行中、ロシア軍に捕らえられ、満州で処刑されたそうです。
現六本木3丁目にあった横川邸宅跡地は昭和13年に遺族保存会により寄贈され公園となったが、昭和39年の首都高速道路都心環状線工事の際に現在地に移されました。
なお、現在の飯倉片町交差点から麻布十番へと下る「麻布通り」の区間は、首都高建設までは道はなく、住宅街が広がっていました。
それら一帯にあった建物は、首都高建設により立ち退きになったようです。
横川邸宅跡地は、『麻布区史』には「麻布箪笥町二四番地」とあります。
戦後間もない頃の住宅地図で確認したところ、現在の「泉ガーデン』と「住友不動産六本木グランドタワー」の間、現在「首都高速都心環状線」になっている辺りにあったようです。横川邸宅跡地は「飯倉片町地下歩道」から見える首都高の飯倉トンネルの出口辺りだと思われます。
※『流動体について』の「君の部屋の下通る」とは、かつての横川邸の下を通るとも解釈できると思っていたのですが...深読みしすぎでしょうか。
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2019年5月上旬の「港区立横川省三記念公園」の様子。 囲いで覆われ、既に立ち入り禁止になっていた。 |
この公園は先述の再開発区域内にあり、先日5月上旬に行った際には既に公園への立ち入りができなくなっていました。
鹿児島 ー 伊東祐亨旧邸跡地
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明治9年(1876年)刊行「明治東京全図」に 飯倉片町と飯倉片町交差点、狸穴坂、伊東祐亨旧邸の場所を追加。 |
元薩摩藩士で帝国海軍初代連合艦隊司令長官を務めた伊東祐亨の旧邸は、現在解体中の旧郵政本省庁舎の東側の敷地を一部含む場所にありました。
明治9年(1876年)刊行「明治東京全図」(上写真紫箇所)に「伊東祐亨」の名前があります。
明治44年の「番地界入東京市拾五区区分図 麻布区図」には同地には既に伊東邸はなく、「稲葉邸」ともうひと区画に分かれてしまっています。伊東が明治22年に現泉岳寺にあった海軍大学校の校長に配属されたことで、高輪(東京府芝区高輪車町三十五番地)に「碧海楼」と呼ばれた終の棲家を建てています。
伊東祐亨旧邸跡の北側と西側は先述の再開発区域に含まれます。
狸穴坂
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外苑東通りから狸穴坂を見下ろす。 |
「狸穴坂」はApple Musicの番組「Tokyo, Music & Us 2017-2018 #1 小沢健二 & 満島ひかり」の中で小沢健二さんが触れた坂で、飯倉片町の東側の境に当たります。
狸穴坂沿いにはロシア大使館が、坂を登った先には「旧郵政本省庁舎」があります。
旧郵政本省庁舎は、動画「小沢健二飯倉片町藪蕎麦前」の最後に映っています。
動画では0:43辺り、ネオンサイン"2019 COMING (RELATIVELY) SOON"が置かれた道、外苑東通りの奥、東京タワーの左側に、2019年5月時点で解体中だった旧郵政本省庁舎の仮囲いがうっすらと見えます。
旧郵政本省庁舎は先述の再開発区域内にあり、ツイート当時の2019年5月には解体中でした。2020年2月現在は既に見る影もありません。
同地には大阪の「あべのハルカス」を超える超高層ビルが建設される予定です。
旧郵政本省庁舎
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旧我善坊町側から見た旧郵政本省庁舎。 反対側は仮囲いがなく、2019年4月上旬時点ではまだ建物内に非常灯が付いていた。 |
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2019年4月上旬、外苑東通りから見た旧郵政本省庁舎。 パノラマ撮影。 解体のための仮囲いが全体を覆っている。 |
旧郵政本省庁舎は、動画「小沢健二飯倉片町藪蕎麦前」の最後に映っています。
動画では0:43辺り、ネオンサイン"2019 COMING (RELATIVELY) SOON"が置かれた道、外苑東通りの奥、東京タワーの左側に、2019年5月時点で解体中だった旧郵政本省庁舎の仮囲いがうっすらと見えます。
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旧郵政本省庁舎を外苑西通り側から望む。 2019年5月時点では、建物は仮囲いで覆われ解体中だった。 |
旧郵政本省庁舎は先述の再開発区域内にあり、ツイート当時の2019年5月には解体中でした。2020年2月現在は既に見る影もありません。
同地には大阪の「あべのハルカス」を超える超高層ビルが建設される予定です。
2016年には建物の改修が行われていたそうです。ということは、
もし小泉政権時の郵政民営化がなければ、この建物が再開発区域に組み込まれることも無かったのかもしれません。
動画の最初に映る地下トンネルは、首都高速都心環状線外回りの「飯倉トンネル」が見える「飯倉片町地下横断歩道」です。
少なくとも江戸時代にその存在が確認できる飯倉片町は、1967年(昭和42年)の首都高都心環状線全線開通(芝公園ー霞が関開通)に伴い、現「麻布通り」が作られ、二つに分断されました。
その後飯倉片町の地名は、首都高を境に東側は麻布台3丁目に、西側は六本木5丁目となり、今は交差点や周辺建物の名前として残るのみです。
分断された区画の名残が、飯倉片町交差点の六本木方面にある「永坂」を少し下った所の三角形状の土地「港区立永坂上遊び場」として残っています(最初の側写真左奥が遊び場)。
飯倉片町地下歩道の向こう側は、旧飯倉片町の東側、麻布台3丁目側の街並みが広がっています。
首都高速道路都心環状線が出来る以前は、この歩道の高さに地面があったのかもしれません。
動画の30秒辺り、画面奥の道路の向こう側に緑十字の安全マークや黄色と黒の斜線の立ち入り禁止の柵が見える場所です。
この場所には、ソ連から両親が亡命し、満州で生まれ、在日外国人の医療に従事した医師、エフゲニー・ニコラエヴィチ・アクショーノフさんの病院がありました。
病院の建物は築100年を超える大正時代に建設された洋館で、港区の歴史的建造物にも指定されていました。
しかし2014年にアクショーノフさんが亡くなったことで病院の存続ができなくなり、建物も取り壊されることになってしまいました。
アクショーノフさんは外科医で、特に腹部外科を専門としていました。
世界保健機関(WHO)の指定医でもありました。
アクショーノフさんは満州国で生まれましたが、戦時中に日本本土に渡り日本の東京慈恵会医科大学へ通いました。
戦時中に日本本土に渡り早稲田国際学院で日本語を学んだのち、東京慈恵会医科大学専門部へと進学しました。
当時は日本在住の外国人は憲兵に監視されていたのですが、憲兵はアクショーノフさんに同情的で、映画のエキストラの世話をしてくれ、陸軍省宣伝部作成の戦意高揚映画に出演し、人気を博していたようです。
戦後に大学を卒業すると、日本で医師として活躍します。
六本木の麻布警察署の向かいのビルにクリニックを開設。その後、飯倉片町交差点の北東角に「インターナショナル・クリニック」を開設、在日外国人の診療にあたっていました。
また、来日した著名な外国人の滞在中の健康管理にも従事していました。
患者にはマイケル・ジャクソンやマドンナ、ブラット・ピット、レディー・ガガ等がいたそうです。
アクショーノフさんの父親はロシア帝国時代の貴族で、いわゆる白系ロシア人でした。
白系とは共産主義を象徴する赤に対して、帝政を表す白の意味です。
1917年に300年続いた ロマノフ王朝が崩壊し、ロシア革命が起こり、帝政ロシアの復活を唱える白軍と革命軍との間で内戦に陥ります。
その内戦に負けた白軍側の軍人や貴族は国を追われることになり、当時の中国のハルビンや満州国へと亡命したと言います。
アクショーノフさんの父親もその一人でした。
小沢健二さんのおじいさんの小沢開作さんと妻のさくらさんは、戦前は満州に住んでいました。
2人の子どもである小沢健二さんの父の小沢俊夫さんや俊夫さんの弟で世界的な指揮者である小澤征爾さんも満州で暮らしていましたが、戦争を機に日本に帰国したそうです。
小澤征爾さんの息子には俳優の小澤征悦さんがいます。
昨年2019年8月に放送されたNHKの番組『ファミリーヒストリー』「小澤征悦~謎だった曽祖父の行方 75年ぶりの真実~」で知ったのですが、小澤征悦さんは、曽祖父がアクショーノフさんの父親と同じ白系ロシア人だったそうです。
征悦さんの母親ヴェラさんはロシア人で、曽祖父のピョートルさんは白系ロシア人でした。
曽祖父のピョートルさんはロシア軍の兵士でしたが、ロシア革命が起こり、対立していたソビエト政権にスパイや政治犯として追われる身となり、家族とともに中国のハルビンへと逃れました。
当時のハルビンにはソビエト政権と対立した貴族や軍人などのいわゆる白系ロシア人が数多く亡命していたそうです。
ピョートルさん一家はその後旧満州の大連に行き、建設会社を立ち上げて成功させます。
ピョートルさんは2人の息子たちにより良い教育を受けさせ日本の大学に行かせようと、昭和13年ごろに妻のヴェラさんと2人の息子を横浜に住まわせます。
一方ピョートルさん自身は大連での不動産業が忙しく、大連に残ることになりました。
征悦の祖父・ヴィタリさんは日本大学の工学部で建築を学び、征悦さんの祖母の本木君江さんと結婚します。
その2人の間に生まれたのが、征悦さんの母、ヴェラさんでした。
ヴェラさんは1968年9月、指揮者の小澤征爾さんと結婚。
1974年に息子征悦さんが誕生します。
小澤征爾さんの奥さんが白系ロシア人の家系であったことと、動画が撮影された飯倉片町交差点の一角で白系ロシア人を父に持つアクショーノフさんがかつて病院を経営していたこと、それが取り壊されたタイミングで動画の撮影が行われていたこと。
それらは偶然なのでしょうか。
全くの想像でしかありませんが、何らかの意図を感じずにはいられません。
飯倉片町藪蕎麦前のティーザー動画の飯倉片町交差点のカメラ側の角は今は駐車場ですが、以前は「樺太会館ビル」(1965年竣工)という建物がありました。
樺太会館ビルには、社団法人「全国樺太連盟」が入っており、南樺太に日本人が住んでいたことを示す資料が保管されていました。
なお、社団法人「全国樺太連盟」は現在「メゾン・ランドゥメンヌ麻布台」隣の「飯倉片町アネックスビル」に移転しているようです。
南樺太は樺太半島の北緯50度以南の土地を示す言葉ですが、日露戦争勝利後のポーツマス条約により日本の領土となり、多くの日本人が移住していました。
しかし終戦直前の1945年8月のソビエト進行により日本人は南樺太を追われ、同地は現在に至るまでソビエト連邦およびそれを引き継いだロシア連邦による実効支配が続いています。
1952年にサンフランシスコ講和(平和)条約が発効され、この条約において日本の南西諸島や小笠原諸島、そして樺太の放棄が明記されました。
しかし条約には引渡先の記載がなく、またソビエト連邦とそれを引き継いだ現ロシア連邦も同条約への署名・批准を拒否しています。
そのため、日本とロシアの両国間では今も平和条約が締結されておらず、国際法上は日本とロシアの国境が未画定のままとなっているようです。
そうした状況から、日本とロシアの両国間で未だ南樺太をめぐる立場が異なっているということのようです。
樺太会館ビル跡地は現在駐車場になっていますが、「公益社団法人日本薬剤師会」がそのおよそ90㎡の土地を所有しており、さらに隣接の土地を拡張して自前の会館「*2日本薬剤師会館(仮称)」を建設する計画が上がっています。
恐らく、飯倉片町地下トンネル脇の駐車場とその下の施設と、その横の家屋の土地を会館の土地にしようとしていると考えられます。
その家の玄関先には、夏には可愛らしいニオイバンマツリやウキツリボクの花が咲いていましたが、2019年の冬に全て根こそぎ切り倒されてしまいました。
この家もいつか更地になり、新しいビルの一部へと変わっていってしまうのでしょうか。
狸穴坂の脇、伊東祐亨邸跡地の道路(外苑東通り)の向かい側にはロシア大使館があります。
ロシア大使館の地は昭和3年にソビエト大使館の所有でしたが、この地には明治維新後から旧肥前国蓮池藩鍋島家の屋敷が所在していました。
日露戦争、南樺太、満州、そしてロシア大使館(旧ソビエト連邦大使館)。
一帯のビルや一戸建ては殆ど解体され更地に。
写真中央高台の旧郵政本省庁舎は解体中で見るも無残な姿に...。
東京タワーとの対比が物凄くショックでした。
表の外苑東通り側からはその様子は全く分かりません。
行合坂を降りきったところに区道廃止のお知らせが貼られていました。
訪問前日の正午より、歩行者並びに車両の通行が出来なくなったとのことでした。
落合坂は入口に蛇腹の扉が付いていて、既に封鎖されていました。
この時はたまたま工事の方が出る時間で、空いていたようです。
六本木インターナショナル跡地は商業ビルの建設が進んでいました。
敷地内の建物は殆ど取り壊され、更地になり、沢山のクレーン車が入っていました。
埋め立てられる予定の行合坂はまだありました。
※これ以降の状況も今後更新予定です。
*1:『港区史』より。なお、『デジタル版 港区のあゆみ 新修港区史』では、空襲により焼失するまで現「泉ガーデン」敷地内に存在した「偏奇館」に住んでいた永井荷風による空襲の被害の様子が要約されている。
*2:『平成29年度 日本薬剤師会会務並びに事業報告』「(10)日本薬剤師会館建設に向けた対応」pp.67-70.
「小沢健二飯倉片町藪蕎麦前」の地下トンネル
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「飯倉片町地下横断歩道」から「飯倉トンネル」を望む。 |
動画の最初に映る地下トンネルは、首都高速都心環状線外回りの「飯倉トンネル」が見える「飯倉片町地下横断歩道」です。
首都高の歴史
首都高速道路株式会社の首都高の歴史のページです。
少なくとも江戸時代にその存在が確認できる飯倉片町は、1967年(昭和42年)の首都高都心環状線全線開通(芝公園ー霞が関開通)に伴い、現「麻布通り」が作られ、二つに分断されました。
その後飯倉片町の地名は、首都高を境に東側は麻布台3丁目に、西側は六本木5丁目となり、今は交差点や周辺建物の名前として残るのみです。
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「永坂」の上方から下方を見る。左奥には「港区立永坂上遊び場」と首都高がある。 |
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分断された三角形状の区画の名残である「港区立永坂上遊び場」。 |
分断された区画の名残が、飯倉片町交差点の六本木方面にある「永坂」を少し下った所の三角形状の土地「港区立永坂上遊び場」として残っています(最初の側写真左奥が遊び場)。
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「飯倉片町地下横断歩道」内から麻布台3丁目を望む。 |
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麻布台3丁目から「飯倉片町地下横断歩道」を望む。 |
補足
六本木インターナショナル跡地
動画の30秒辺り、画面奥の道路の向こう側に緑十字の安全マークや黄色と黒の斜線の立ち入り禁止の柵が見える場所です。
この場所には、ソ連から両親が亡命し、満州で生まれ、在日外国人の医療に従事した医師、エフゲニー・ニコラエヴィチ・アクショーノフさんの病院がありました。
港区のインターナショナル・クリニック | レトロな建物を訪ねて
麻布台の飯倉片町交差点に鬱蒼と茂る木々の向こうに古い建物が見えます。大正期に建てられたインターナショナル・クリニックという診療所です。ネット情報では高齢...
病院の建物は築100年を超える大正時代に建設された洋館で、港区の歴史的建造物にも指定されていました。
「六本木の赤ひげ」院長の開業していたインタナショナル・クリニックが解体! - 飯島一孝ブログ「ゆうらしあ!」
国際政治・外交ランキング <インタナショナル・クリニックが解体され、残されたブロック塀と看板> ...
しかし2014年にアクショーノフさんが亡くなったことで病院の存続ができなくなり、建物も取り壊されることになってしまいました。
六本木に国籍のないドクターがいた。
東京港区六本木、飯倉片町の交差点。築100年を超える洋館が、樹々に囲まれ、静かにたたずんでいます。そこは、第二次大戦中に満州からやって来たエフゲニー・アクショーノフ先生が60年ちかくにわたって在日外国人を診察してきたクリニック。 文化も宗教もいろいろな人たちに慕われ、頼られた先生のクリニックではしばしば、一般の病院ではありえないことが起こったそうです。 ...
アクショーノフさんは外科医で、特に腹部外科を専門としていました。
世界保健機関(WHO)の指定医でもありました。
アクショーノフさんは満州国で生まれましたが、戦時中に日本本土に渡り日本の東京慈恵会医科大学へ通いました。
戦時中に日本本土に渡り早稲田国際学院で日本語を学んだのち、東京慈恵会医科大学専門部へと進学しました。
当時は日本在住の外国人は憲兵に監視されていたのですが、憲兵はアクショーノフさんに同情的で、映画のエキストラの世話をしてくれ、陸軍省宣伝部作成の戦意高揚映画に出演し、人気を博していたようです。
戦後に大学を卒業すると、日本で医師として活躍します。
六本木の麻布警察署の向かいのビルにクリニックを開設。その後、飯倉片町交差点の北東角に「インターナショナル・クリニック」を開設、在日外国人の診療にあたっていました。
また、来日した著名な外国人の滞在中の健康管理にも従事していました。
患者にはマイケル・ジャクソンやマドンナ、ブラット・ピット、レディー・ガガ等がいたそうです。
アクショーノフさんの父親はロシア帝国時代の貴族で、いわゆる白系ロシア人でした。
白系とは共産主義を象徴する赤に対して、帝政を表す白の意味です。
1917年に300年続いた ロマノフ王朝が崩壊し、ロシア革命が起こり、帝政ロシアの復活を唱える白軍と革命軍との間で内戦に陥ります。
その内戦に負けた白軍側の軍人や貴族は国を追われることになり、当時の中国のハルビンや満州国へと亡命したと言います。
アクショーノフさんの父親もその一人でした。
小沢家と白系ロシア人
小沢健二さんのおじいさんの小沢開作さんと妻のさくらさんは、戦前は満州に住んでいました。
2人の子どもである小沢健二さんの父の小沢俊夫さんや俊夫さんの弟で世界的な指揮者である小澤征爾さんも満州で暮らしていましたが、戦争を機に日本に帰国したそうです。
小澤征爾さんの息子には俳優の小澤征悦さんがいます。
NHKドキュメンタリー - ファミリーヒストリー「小澤征悦~謎だった曽祖父の行方 75年ぶりの真実~」
(感想スタンプはどれか1個だけ押せます。) ...
昨年2019年8月に放送されたNHKの番組『ファミリーヒストリー』「小澤征悦~謎だった曽祖父の行方 75年ぶりの真実~」で知ったのですが、小澤征悦さんは、曽祖父がアクショーノフさんの父親と同じ白系ロシア人だったそうです。
征悦さんの母親ヴェラさんはロシア人で、曽祖父のピョートルさんは白系ロシア人でした。
曽祖父のピョートルさんはロシア軍の兵士でしたが、ロシア革命が起こり、対立していたソビエト政権にスパイや政治犯として追われる身となり、家族とともに中国のハルビンへと逃れました。
当時のハルビンにはソビエト政権と対立した貴族や軍人などのいわゆる白系ロシア人が数多く亡命していたそうです。
ピョートルさん一家はその後旧満州の大連に行き、建設会社を立ち上げて成功させます。
ピョートルさんは2人の息子たちにより良い教育を受けさせ日本の大学に行かせようと、昭和13年ごろに妻のヴェラさんと2人の息子を横浜に住まわせます。
一方ピョートルさん自身は大連での不動産業が忙しく、大連に残ることになりました。
征悦の祖父・ヴィタリさんは日本大学の工学部で建築を学び、征悦さんの祖母の本木君江さんと結婚します。
その2人の間に生まれたのが、征悦さんの母、ヴェラさんでした。
ヴェラさんは1968年9月、指揮者の小澤征爾さんと結婚。
1974年に息子征悦さんが誕生します。
小澤征爾さんの奥さんが白系ロシア人の家系であったことと、動画が撮影された飯倉片町交差点の一角で白系ロシア人を父に持つアクショーノフさんがかつて病院を経営していたこと、それが取り壊されたタイミングで動画の撮影が行われていたこと。
それらは偶然なのでしょうか。
全くの想像でしかありませんが、何らかの意図を感じずにはいられません。
樺太会館ビル跡地
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駐車場になっている「樺太会館ビル」の跡地。 写真右の車止めの奥には飯倉片町地下歩道へと降りる階段がある。 また、動画で小沢健二さんはその車止めの写真手前側を左から右に歩いていた。 写真左の建物が飯倉片町藪蕎麦こと「麻布台藪蕎麦」があるビル。 |
飯倉片町藪蕎麦前のティーザー動画の飯倉片町交差点のカメラ側の角は今は駐車場ですが、以前は「樺太会館ビル」(1965年竣工)という建物がありました。
樺太会館ビルには、社団法人「全国樺太連盟」が入っており、南樺太に日本人が住んでいたことを示す資料が保管されていました。
「南樺太返還期成同盟」という運動が存在した
ロシアの武力威嚇によって掠め盗られた樺太。日露戦争で回復した南半は大東亜戦争後にロシアが不法占拠し続けるが、左翼勢力はこれを是とし、侵略された歴史を何が何でも隠そうとする。改めて日本の北方領域・樺太の歴史を振り返る。 『別冊正論』 第25号『「樺太-カラフト」を知る』 渡辺国武(南樺太復帰同盟会長) ...
なお、社団法人「全国樺太連盟」は現在「メゾン・ランドゥメンヌ麻布台」隣の「飯倉片町アネックスビル」に移転しているようです。
南樺太は樺太半島の北緯50度以南の土地を示す言葉ですが、日露戦争勝利後のポーツマス条約により日本の領土となり、多くの日本人が移住していました。
しかし終戦直前の1945年8月のソビエト進行により日本人は南樺太を追われ、同地は現在に至るまでソビエト連邦およびそれを引き継いだロシア連邦による実効支配が続いています。
1952年にサンフランシスコ講和(平和)条約が発効され、この条約において日本の南西諸島や小笠原諸島、そして樺太の放棄が明記されました。
しかし条約には引渡先の記載がなく、またソビエト連邦とそれを引き継いだ現ロシア連邦も同条約への署名・批准を拒否しています。
そのため、日本とロシアの両国間では今も平和条約が締結されておらず、国際法上は日本とロシアの国境が未画定のままとなっているようです。
そうした状況から、日本とロシアの両国間で未だ南樺太をめぐる立場が異なっているということのようです。
樺太会館ビル跡地は現在駐車場になっていますが、「公益社団法人日本薬剤師会」がそのおよそ90㎡の土地を所有しており、さらに隣接の土地を拡張して自前の会館「*2日本薬剤師会館(仮称)」を建設する計画が上がっています。
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飯倉片町地下駐車場を出たところにある民家。 |
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写真右奥の家の裏にある高台が「樺太会館ビル」跡地の駐車場。 |
恐らく、飯倉片町地下トンネル脇の駐車場とその下の施設と、その横の家屋の土地を会館の土地にしようとしていると考えられます。
その家の玄関先には、夏には可愛らしいニオイバンマツリやウキツリボクの花が咲いていましたが、2019年の冬に全て根こそぎ切り倒されてしまいました。
この家もいつか更地になり、新しいビルの一部へと変わっていってしまうのでしょうか。
ロシア大使館
狸穴坂の脇、伊東祐亨邸跡地の道路(外苑東通り)の向かい側にはロシア大使館があります。
ロシア大使館の地は昭和3年にソビエト大使館の所有でしたが、この地には明治維新後から旧肥前国蓮池藩鍋島家の屋敷が所在していました。
日露戦争、南樺太、満州、そしてロシア大使館(旧ソビエト連邦大使館)。
飯倉片町周辺には、明治時代以降の日本とロシアとの関係を示すものが沢山あるようです。
2019年4月より再開発事業が始まりましたが、まだ再開発予定区域の旧我善坊町を歩くことが出来ました。
ただし、街の殆どは人が住んでおらず、残った人々も幾つかのマンションを残すのみでした。
町域には谷底の道を通り抜ける人がたまに通る以外は人がおらず、まるでゴーストタウンのようでした。
旧我善坊町の道はまだ通ることが出来ましたが、周りは仮囲いで覆われていました。
横川省三記念公園も仮囲いで覆われ、中に入ることは出来ませんでした。
区域は休工中となっているようで、谷底の落合坂の道はまだ街を通り抜けることが出来ました。
仮囲いで中の様子が分からないので、北側の高台になっている仙谷山方面から虎ノ門・麻布台再開発区域を見てきました。
「虎ノ門・麻布台地区」の現在
最後に、旧我善坊町こと、虎ノ門・麻布台地区の2019年4月から現在までの状況を写真付きで紹介します。
2019年4月6日
2019年4月より再開発事業が始まりましたが、まだ再開発予定区域の旧我善坊町を歩くことが出来ました。
ただし、街の殆どは人が住んでおらず、残った人々も幾つかのマンションを残すのみでした。
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低層住宅が立ち並ぶ地域は、既に立ち入り禁止になっていました。 |
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当時は統一地方選挙の時期でした。 人が立ち退き、もはや民意を反映しようがないこの街に選挙ポスターの掲示板が貼られている光景は、何だか不思議な感じがしました。 |
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既に取り壊しが始まっているビル。 |
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旧郵政省本庁舎裏手にあった建物。 まだ建物へと続く路地に入ることができました。 |
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上写真右手の建物の窓に映っていた東京タワー。 |
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ビルに映る東京タワー。 |
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虎ノ門五丁目9-2。 |
町域には谷底の道を通り抜ける人がたまに通る以外は人がおらず、まるでゴーストタウンのようでした。
2019年5月11日
旧我善坊町の道はまだ通ることが出来ましたが、周りは仮囲いで覆われていました。
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仮囲いで覆われ、立ち入りが出来なくなった横川省三記念公園。 |
横川省三記念公園も仮囲いで覆われ、中に入ることは出来ませんでした。
2019年5月25日
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行合坂との合流地点から落合坂をみる。 2019年5月25日撮影。 |
区域は休工中となっているようで、谷底の落合坂の道はまだ街を通り抜けることが出来ました。
仮囲いで中の様子が分からないので、北側の高台になっている仙谷山方面から虎ノ門・麻布台再開発区域を見てきました。
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北側の仙谷山方面からみた虎ノ門・麻布台再開発区域。 2019年5月25日撮影。 |
一帯のビルや一戸建ては殆ど解体され更地に。
写真中央高台の旧郵政本省庁舎は解体中で見るも無残な姿に...。
東京タワーとの対比が物凄くショックでした。
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旧郵政本庁舎を正面の外苑東通りから見る。 2019年5月25日撮影。 |
表の外苑東通り側からはその様子は全く分かりません。
2019年6月8日
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行合坂の坂下、落合坂の入口に貼ってあった区道廃止のお知らせ。 2019年6月8日撮影。 |
行合坂を降りきったところに区道廃止のお知らせが貼られていました。
訪問前日の正午より、歩行者並びに車両の通行が出来なくなったとのことでした。
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落合坂上の入口は蛇腹の扉が付いていて、閉鎖されていました。 2019年6月8日撮影。 |
落合坂は入口に蛇腹の扉が付いていて、既に封鎖されていました。
この時はたまたま工事の方が出る時間で、空いていたようです。
2019年7月27日
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六本木インターナショナル跡地。 商業ビルの建設が進んでいました。 |
六本木インターナショナル跡地は商業ビルの建設が進んでいました。
2019年9月1日
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落合坂の上から地域を撮影。 |
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落合坂の上から地域を見る。 |
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北側の台地上から地域を見る。 |
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北側の台地上から行合坂(首都高の高架手前の白いガードレールのところ)を見る。 |
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港区立麻布小学校の裏を見る。小学校の右手には横川省三記念公園があった。 |
敷地内の建物は殆ど取り壊され、更地になり、沢山のクレーン車が入っていました。
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行合坂を降りきったところから麻布小学校方面(飯倉片町交差点方面)を見る。 |
埋め立てられる予定の行合坂はまだありました。
※これ以降の状況も今後更新予定です。
脚注
*1:『港区史』より。なお、『デジタル版 港区のあゆみ 新修港区史』では、空襲により焼失するまで現「泉ガーデン」敷地内に存在した「偏奇館」に住んでいた永井荷風による空襲の被害の様子が要約されている。
*2:『平成29年度 日本薬剤師会会務並びに事業報告』「(10)日本薬剤師会館建設に向けた対応」pp.67-70.
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