『小沢健二東大900番講堂講義』とパイプオルガン、イメージの影響学、そして都市開発(講義前に色々と考えてみた 草稿)

2023年7月24日月曜日

#ozkn イメージの影響学 影響学セミナー 再開発 渋谷公会堂 小沢健二 森ビル 都市再生特別措置法 東京 東大900番講堂 立体緑園都市


この記事は、小沢健二さんが東大900番講堂と渋谷公会堂で講義をすることについて記述したものです。
また、東大900番講堂に置かれたパイプオルガンの経緯と講義タイトル「イメージの影響学」から想起したことについて描いています。

追記:この文章は講義を受ける前の情報を基に記載しています。
講義の内容を記載していると思われた方、誠に申し訳ございません。
追講義の内容と感じたことについては改めて記事にしたいと考えています。
(ブログ主多忙の時期につき公開はいつになるかは未定です。ご了承ください。)

小沢健二さんの意向につき追講義の内容については公開をしないことに致しました。

(草稿なので随時書き換え中です...。)

はじめに


小沢健二 東大900番講堂講義・本講義のお知らせ


2023年6月13日、小沢健二さんが同年秋に東大で講義を行うと告知がありました。


講義名は「小沢健二東大900番講堂講義」。

この講義は東京大学総合文化研究科・副産物ラボ(中井悠研究室)の『影響学セミナー』の一環として行なわれるそうです。

小沢健二さんにより行われる第六セミナーのテーマは「イメージの影響学」。

講義は小沢健二さんが講義のために書いた新作著書『東大900番講堂講義・教科書』を独特な使い方で使いながら進行し、音楽演奏のある「アトラクションのような講義」を予定しているそうです。
同書は受講者のみが購入可能となっており、受講者に後日販売先が知らされるとのこと。


本講義の場所は東京大学駒場キャンパス900番講堂。

講義を受講申込できる条件は「東大あるいは他大学の学生・院生」か「東大教員・職員」。
「東大教員・職員」は同伴者1名を受講者として参加させることが可能です。

申込期限は2023年7月14日(金)までで、学生と院生が受講するには、テーマに沿ったレポートの提出が必要でした。


また、一般向けには10月2日(月)に追講義が行われることも予告されました。

小沢健二 東大900番講堂講義・追講義 + Rock Band Set のお知らせ


2023年7月14日、追講義の詳細が告知されました。

追講義は渋谷公会堂(LINE CUBE SHIBUYA)で行われることが告知され、同日ローチケにてチケットの抽選受付が始まりました。



別講義のタイトルは『小沢健二 東大900番講堂講義・追講義 + Rock Band Set』。

東大900番講堂で行われる本講義と同じ内容の講義のあと、Rock Band Set でさらに演奏をするとのことで、追講義は本講義同様、新曲・旧曲の演奏を含むそうです。
ドレスコードは思い思いのパーティーに向いた格好 + 懐中電灯。
懐中電灯は充分に充電されたスマホでも可とのこと。

講義について分かっていること

講義について分かっていることは次の通り。
  • 「影響学セミナー」の第六セミナーとして行われる
  • 講義のタイトルは「イメージの影響学」
  • 講義のために特別に作られた教科書を独特な使い方をすることで進行するアトラクションのような講義
  • 新曲と旧曲を演奏する

普通の講義ではない、ということは分かりますが、どんな講義なのか検討もつきません。

影響学セミナーと「イメージの影響学」


今回の本講義は、「東京大学副産物ラボ/S.E.L.O.U.T. 」(中井悠研究室)が主催する「影響学セミナー」の第六セミナーとして行われます(追講義も内容は同じとのこと)。

概要
合理的にメカニズムを説明することができない(主に遠隔で働く)作用を言い表す便利な言葉として、日常会話で多用されるほか、文系理系を問わずさまざまな学術分野においても無意識のうちに濫用されている《影響(influence)》という奇妙な説明原理。その語源を遡ると、星々からの隠された(=occult)力が地上に流出してさまざまな作用を及ぼすという古代からルネサンスにかけての占星術と魔術に行きつきます。中井悠が東京大学で主催する「副産物ラボ(s.e.l.o.u.t.)」では、知覚できない病原体による感染(influenza)から、アルコールなど薬物の摂取による精神の変容(under the influence)、そしてオンライン上の情報発信によって遠隔地の他者の振る舞いを変化させる新種の職業(influencer)にいたるまで、《影響》という多領域に広がる盲点のような説明原理の隠れた作用と流出史を多角的に研究しています。


確かに、「影響」という言葉って、日常的になんとなく使っていますが、それって具体的にはどういうことなの?って言われるとよく分からないですよね。

「影響」を論理的に説明しろなんて言われても、それ以外の言葉で説明するのは難しい。

特に現代は東京大学副産物ラボHPの概要で書かれているように、感染(influenza)やアルコールなど薬物の摂取による精神の変容(under the influence)、SNSなどのインフルエンサー(influencer)など、influenceという言葉が今を語る上で特に重要な気がしますよね。


そして、小沢健二さんの講義のタイトルは「イメージの影響学」。
「イメージ」というのも非常にわかりにくい言葉ですよね。

小沢健二さんの歌『彗星』(2019) に「2000年代を嘘が覆い イメージの偽装が横行する」という歌詞もあることから、「イメージ」という言葉についてや、それが現代に及ぼす「影響」について、小沢さんなりの視点や考えがありそうですよね。

また、『流動体について』(2017) では「意志は言葉を変え 言葉は都市を変えてゆく」という歌詞もありますし、ミュージシャンの立場から、歌が人々の考えにどのような影響を及ぼすのか、ということも考えてそうですよね。

『薫る』(2019) のように何かを生み出すことにも想像力やイメージは必要でしょう。

また、他者への想像力(Imagination)の欠如の問題も近年叫ばれています。
ジョン・レノンの歌『Imagine』(1971) などもイメージですよね。

どんな講義になるのか?


小沢健二さんと言えば音楽だけでなく文章を書かれたり、CDのジャケットからパッケージ、サイトやMV、グッズ等のデザインなど様々な活動をされていますが、2010年のツアー「ひふみよ」から、ライブ中に朗読を読まれています。

近年では朗読のみの配信もされることもありますが、今回の講義はこの朗読に近いスタイルになるのか、はたまた講義ということなのでより学問的な内容、スタイルになるのか。

また、今回の講義では自身で教科書を作成していますが(なんと100ページ超!)、教科書は講義中に特殊な使い方をするとのことです。
また、新曲と旧曲を交えたアトラクションのような講義をする、とのことですが...。
どんな講義なのか全く想像がつきません。
そして、本講義、追講義ともにこれまでのライブのスタッフが参加されることなども発表されました。

今回の講義は、音楽や様々な演出を凝らした、従来の講義の形式に囚われない非常にユニークな講義になりそうですね。

追講義の後に行われるRock Band Setとは?


追講義の後に行われるRock Band Setは、Rock Band Setということなので(『魔法的』や『飛ばせ湾岸』のサブタイトル「guitar bass drums (keys)」のようにライブのタイトルで使用される楽器に言及はありませんが)、ストリングスやホーンズなどが含まれない、ギターやベース、ドラムなどのシンプルな構成になる、ということでしょうか。

ドラムは2022年6月のライブ『飛ばせ湾岸神戸 guitar bass drums keys で So kakkoii 宇宙が』では、サプライズでクラシックパーカッション(奏者・小竹満里さん)も含まれていましたが、今回もクラシックパーカッションは含まれているのでしょうか。

また、本講義ではオルガンを使用しそうな雰囲気はありますが、追講義のRock Band Setにはキーボード(飛ばせ湾岸神戸では西村奈央さんが奏者でした)も含まれているのでしょうか。

また、ローチケの追講義の特設サイトに掲載されていたフライヤー風の画像には、「燃えるロックバンドセット」をやるとかいてありました。

全席に東大本講義と同じ教科書と、ニットのジャガード編みバッグが付いてきます。
本講義と同じ内容の講義のあと、燃えるロックバンドセットをやります。
ドレスコード:パーティー向きの服装および懐中電灯。
長いので開演18時!途中入場、もちろん可。

小沢健二東大900番講堂講義追講義 + Rock Band Set Line Cube Shibuya 渋谷公会堂」フライヤー風画像より(小沢健二 東大900番講堂講義・追講義 + Rock Band Set (ローチケ)サイト内の画像より)

「燃えるロックバンドセット」、かなり熱いライブを予定しているということでしょうか。
期待が高まりますね。

演奏される旧曲と新曲について


講義では旧曲と新曲が披露されるとのこと。

演奏される曲については特に明言はありませんが、SNSのご本人の投稿では、渋谷公会堂は『ラブリー』を新曲としてやり、初めてストリングス入りの編成でやったところだとご本人が話されていることから、『ラブリー』は演奏しそうです。

また、講義の発表と同タイミングで配信され、関連グッズやアナログ盤が販売された『春にして君を想う』も演奏しそうですよね。

『春にして君を想う』の配信とアナログ盤の発売は、同曲が2023年7月14日公開の映画『アイスクリームフィーバー』のエンディング曲に決まったことがきっかけのようです。

映画を制作した千原徹也監督が元々同曲が好きで、自身初監督作のこの映画のエンディング曲にこの曲が合うのではないかと考え、小沢健二さんに使用許可をお願いし実現したとのことです。

小沢健二「春にして君を想う」が映画「アイスクリームフィーバー」エンディング曲に決定(動画あり / コメントあり)

『アイスクリームフィーバー』の原作は、小説家の川上未映子さんの小説『愛の夢とか』に収録されている「アイスクリーム熱」です。

映画『アイスクリームフィーバー』

川上未映子さんは、2022年年末から行われたSpotifyの企画「#ラブリーRSE 公式プレイリスト」で小沢健二『ラブリー(Remaster Short Edit)』を含めた公式プレイリストを制作しており、2023年1月にはプレイリストを聴きながらDiscord上で小沢健二さんとチャットをされていました。

今思えば、この公式プレイリスト制作は今回映画のエンディング曲に決まったことで実現したのでしょうね。

小沢健二「ラブリー」をリミックス&リマスタリング、全国ツアー映像を2曲公開

そして、講義では新曲が披露されます。
『運命、というかUFOに(ドゥイ、ドゥイ)』以来の9か月ぶりの新曲。
本講義、そして追講義では、いったいどんな曲が披露されるのでしょうか。

渋谷公会堂でラブリーを演ったことを強調されていることから、もしかすると『運命、というかUFOに(ドゥイ、ドゥイ)』が『飛行する君と僕のために』にインスパイアされ制作されたように、新曲は『ラブリー』にインスパイアされた曲なのかもしれません。
(或いは新曲が1曲だけでないとしたら『春にして君を想う』インスパイア曲もあるかも?)

そして新曲は音源化されるのでしょうか?されるとしたらいつ?
配信もしくはCDなどのフィジカル盤の発売はあるのでしょうか?
ジャケット写真は?もしフィジカル盤が出るなら、どのようなパッケージデザインなのか?
カップリング曲も収録されるのでしょうか?
講義で使用される教科書との関係は?
(もしかして、教科書にCDが同梱されたりして?)

などなど、期待に胸が高鳴りますね。

追講義の特典①ニットバッグ

追講義の特典として、講義で独特な使い方をされるという「教科書」とニットバッグが全席に付いているそうです。



ニットバッグは教科書が丁度入るサイズで、小沢健二さん曰く「秋らしい深い緑」。
小沢健二さんデザイン。

ニットバッグは先日一日限定で販売が行われました。

小沢健二 900番講堂講義公式・ジャガード編みバッグ|グッズ

ニットバッグは公式には「ジャガード編みバッグ」のようです。

ジャガード編み(ジャカード編み)とは1801年にフランス人発明家ジョゼフ・マリー・ジャカール(Joseph Marie Jacquard、1752-1834)により発明された自動織機「ジャガード織機」によってつくられた織物のことです。

※「ジャガード織み」の呼称は発明者の呼称(Wikipediaによるとあだ名とのこと)である「ジャカール(Jacquard)」に由来しますが、ジャカールはフランス語読みで、Jacquardを英語読みをすると「ジャカード」になることに由来します。日本では「か」に濁点が付いていた方が発音しやすいことから「ジャガード」と呼ばれるようになったそうです。

それまでのヨーロッパでは人力織機が主流で、ドロー織機という織機の横に高いはしごがついるものを使用していました。
「ドロー・ボーイ」(空引工)と呼ばれる子供(児童労働者)がはしごで織機の上に登り、文様を出すために必要な経糸を引き上げる操作を織り手と呼吸を合わせて行っていたそうです。
複雑な模様を折る際は大変な手間がかかり、大人数で役割分担をし織機の上に必要な縦糸を持ち上げる必要があったそうです。

対して、ジャガード織機は経糸を自動で上下に開口することが出来るため、様々な模様に対応することが可能になったそうです。

(※なお、製織が自動化されたことで、多くのドロー・ボーイは失業し、児童たちはより危険な工場での仕事を探すことになってしまったそうです。)

この経糸の自動制御を行うシステムが実に画期的でした。
それは紋紙という厚紙に穴を開け(いわゆるパンチカード)、穴が開いているか空いていないかによって経糸を操作するものでした。
この穴のパターンを変えることにより、複雑な模様をこれまでよりも労力が少なくより早く織ることが可能になりました。


このジャガード織機のパンチカードシステムは、当時産業革命の発展に大きく寄与することとなりますが、同時に初期のプログラム化された機械の発展に重要な役割を果たしたと言われています。


19世紀、数表計算の機械化を考えていた英国ケンブリッジ大学の数学教授チャールズ・バベッジ(1791-1871)は、当時イギリスの工業地帯で使用されていたジャガード織機に着想を得ました。
彼は人間の流れ作業で計算して作った数表に誤りが多かったことから数表計算の機械化を思いつき、パンチカードによるプログラミング機構をもつ「解析機関Analytical Engine)を設計したそうです。
バベッジの解析機関は演算カードと変数カードの2組のパンチカードに記載されたプログラミングが制御して計算を実行させる自動計算機で、基本構造から原理までが現代のコンピューターに驚くほど似ているそうです。

(※Wikipedia「チャールズ・バベッジ」によると、「解析機関はジャカード織機のパンチカードのループで計算機構を制御し、前の計算結果に基づいて次の計算を行うことができる。逐次制御、分岐、ループといった現代のコンピュータのような特徴すら、いくつかを備えている」とのことです)


その後アメリカ人のハーマン・ホレリス(1860-1929)は後のIBMとなる会社を設立し、ジャカードの紋紙を応用して人口集計用のパンチカード・システムをつくりました。
このシステムは1890年のアメリカ合衆国の国勢調査に使用し大成功を収めたそうです。

そのIBMのパンチカード機械の技術を応用し、ハワード・エイケン(1900-1973)は1944年に計算機(Harvard Mark I )を完成させました。
これが電気機械式自動計算機(プログラム可能な計算機)の第1号となりました。
この計算機が更に現在のコンピューターの開発と発展へと繋がっていきます。

ちなみに、エイケンの計算機は大学でバベッジが製作した解析機関の一部を発見したことがきっかけで、そこから着想を得たそうです(Wikipedia『解析機関』「影響」より)。

ジャカード織機とコンピューター


つまり、ジャカード織機のパンチカードシステムが最初の計算機を生み、その基本原理や構造が受け継がれ発展していくこと、影響を与え続けることで、現代のコンピューターを生み出すことになったのです。

これは昨年の年末の配信でも話していた「巨人の肩の上に立っている」という話や、今回の講義タイトル「イメージの影響学」の話に繋がってくる話のような気がします。


そう言えば、今回の本講義の申し込みサイトや本講義・追講義のフライヤーのデザインもレトロなパソコンの画面がモチーフとなっています。
また、読書ネコのドット絵もファミコンなどのレトロゲームを連想させるデザインとなっていますね(カセットを入れるファミコンはジャカード織機のパンチカードを連想させますし)。


ちなみにジャガード織は日本の伝統的な織物の発展にも大きく寄与しています。
1872年に京都府が西陣織の関係者をリヨンに送って織機の使い方を学ばせ、帰国の際に機械を持ち帰らせたとのことです。ジャガード織機の導入により、西陣織は量産性が高まっただけでなく、機械化することで、より精細で新しいデザインの織物も可能になったそうです。


追講義の特典②教科書


追講義ではニットバッグに加えて教科書も席に付いてきます。
本講義では参加者限定で教科書販売が行われるそうですが、本講義に参加していないため詳細は不明です。

教科書については不明な点が多く、独特な使い方をする書き下ろしの教科書ということ、そして100ページ超もあるという情報くらいです。
ニットバッグがA4サイズ相当のため、サイズはだいたい想像が出来ますが...。
想像の遥か斜め上を行く小沢健二さんですから、そもそも四角い形状をした教科書なのかすら分かりません。

しかし教科書とは言え、予習も出来ず、しかも100ページ超えとは...!
講義の内容、果たして理解しきれるのでしょうか...。

そしてその教科書は音楽演奏のある「アトラクションのような講義」の中でどのような使われ方をするのでしょうか。

本講義、追講義のドレスコードと懐中電灯


本講義、追講義のドレスコードはパーティー向きの恰好とのこと。

これだけ言われると、正直悩みますよね。
スーツやタキシード、ドレスなどきれいめの恰好なのか、パーティーピーポーのような個性的な格好をするのがよいのか。
追講義のパンフレット風の画像には、ドット絵でかなり奇抜な格好をした人たちが描かれていたことを考えると、個性的な格好をすることをもとめられているのか?とも思いますが、自分が良いと思う格好でよいのでは?と思います。

これまでも、例えばアルバム『So kakkoii 宇宙』のリスニングパーティー時のTwitterのアイコンでスーツに蝶ネクタイだけどシャツはポロシャツだったりと、常識にとらわれない格好をしてきていましたし、ライブは非日常だとも言っていることから、小沢健二さんとしては非日常的な空間なのだから常識に囚われない自分らしい恰好をすればよい、と考えているのではないでしょうか。


また、懐中電灯が必要とのことですが、講義内でどのように使用されるのか?
教科書を照らすためなのか、それとも「アトラクションのような講義」で使われるシーンがあるのか?(例えば、東大で生まれたという『天使たちのシーン』の「冷たい夜を照らす暖かな火」「暗い道を照らす明るい光」として使用?)

詳細を知れば知るほど全貌は全く見えず、謎は深まるばかりです。

本講義会場の東京大学教養学部900番講堂について

東大900番講堂で講義をするということについて

本講義は東京大学駒場キャンパスの900番講堂で行われます。
東京大学は小沢健二さんが所属していた大学です。

900番講堂は教養学部最大の講義室であり、小沢健二さんも大学生時代はこの900番講堂で講義を聴いていたとは思うのですが、一体何故900番講堂なのでしょうか。

まずは小沢健二さんと駒場キャンパスとのかかわりについて調べてみました。

小沢健二さんが東京大学の学生だった頃のことについて

小沢健二さんは1988年に東京大学に入学しました。
1989年の大学2年の時に自身が参加していたバンド、ロリポップ・ソニックのメジャーデビューが決まりました。
しかしその後小山田圭吾さん以外のメンバーは脱退、フリッパーズ・ギターに改名し小山田圭吾さんと2人で活動を始めました。

1989年に『three cheers for our side〜海へ行くつもりじゃなかった』、1990年に『CAMERA TALK』、1991年に3rdアルバム『ヘッド博士の世界塔』をリリースし精力的に音楽活動を行っていましたが、『ヘッド博士の世界塔』をリリースした直後に突如解散。

解散後は東京大学に復学し、1992年は東大の5年生として過ごしていたようです。
単位は全て取っていたものの、敢えて籍を残していたそうです。
大学を卒業したのは1993年の春でしたが、小沢健二さんにとって、1992年は創作の原点だった(『月刊Views』1995年8月号)とか、東大の日々が無かったら『天使たちのシーン』は生まれなかった(『AERA』2022年5月23日号)と後に語っているように、1992年はその後の方向性を決めた重要な時期だったようです。

フリッパーズ・ギター解散後からソロデビューまでのことについては不明なことが多いですが、bxjpさんの以下のnoteがよくまとまっています(記事は有料)。

1992年の小沢健二(草稿)|bxjp

当時は相当やさぐれた生活をしていたと本人は語っていますが、解散後は青山に当時あったクラブ「MIX」に通い詰めていたとのことで、青山MIXを生活の中心としてスチャダラパーやタケイグッドマン氏、川辺ヒロシ氏、荏開津広氏たちと行動を共にしており、そこで体験したことが自身のソロデビュー後の音楽活動に大きく影響していたようです。

そういえば、2022年6月26日の『So kakkoii 宇宙 Shows』千秋楽では、スペシャルゲストとしてスチャダラパーが登場し『今夜はブギー・バック』を披露しましたが、その直前のMCで小沢健二さんは『有明最終日、1992年へ!』と言っていました。

それは、自身の創作の原点であり、スチャダラパーら友人たちとよく遊び、ブギバの歌詞や曲調、MVがそれを示していると思われる、青山MIXの特別な空気感、そういったものを存分に浴びた、ある種危うさを含んだこの時期に再び一瞬「離脱」したのが「1992年へ!」という一言だったのでしょう。

ブギバのバックで鳴っていた音たちが怪しく不穏な危うさがあったのはそのためであり、何かがドロドロと渦巻き、生まれ出てくるような、そんな雰囲気を含んでいたのではないでしょうか。

そう考えると、『So kakkoii 宇宙 Shows』での『今夜はブギーバック/あの大きな心』→(『今夜はブギー・バック』)→『あらし』→『フクロウの声が聞こえる』の流れは、まさにそんな当時の状況を表したものだったのかも知れません。

※ソロデビュー前夜の小沢健二さんのことを知るには、その他にソロデビュー時に小沢健二さんのプロデューサーをしていた井出靖さんのnote『僕の体験した東京の90年代』も大変参考になります(記事は有料)。

Yasushi Ide|note

この井出靖さんのnoteを基にさらに内容を加えたものが書籍化されているようです。

井出靖 2023『Rolling On The Road-僕が体験した東京の1960年代から90年代まで』有限会社キング・コブラ


また、『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)』の歌詞に「駒場図書館」とあるように、学生時代は東大駒場キャンパスに当時あった図書館(現アドミニストレーション棟の場所にかつてあった図書館)で作詞をしていたとご本人が語っています(『AERA』2022年5月23日号)(※現駒場図書館は駒場寮跡地に2001年に新設されたもの)。

小沢健二さんが2022年1月2日にSNSに投稿したエッセイ『犬でも犬キャラでもいいから』によると、2021年12月に再販した1stアルバムのジャケットの手書きの歌詞はすべて1992年から1993年に歌詞カードとノートに書いたもの、とあるので、作詞はまさに東大在籍時のこの時期に行っていたことが分かります。

恐らく解散後から1993年にソロデビューするまでのこの時期に東大駒場の図書館で歌詞を書いていたのでしょう。

東京大学教養学部900番講堂概要

東京大学教養学部900番講堂。2023年6月撮影。


小沢健二さんが9/30に本講義を行う東京大学教養学部900番講堂とはどんなところなのでしょうか。

本講義会場の900番講堂は、1938年に東京大学教養学部の前身の旧制第一高等学校の講堂として建てられました。
900番講堂は600人以上が収容でき、教養学部で最も大きな教室として、人気のある選択科目や法学部の専門科目の講義などが行われているそうです。
また、講演やオルガンの定期演奏会にも使用されているそうです。

駒場キャンパスと900番講堂の歴史


900番講堂の歴史を語るには、まず駒場の地に東京大学のキャンパスが出来た経緯を説明しなければいけません。

明治初期、現在の新宿御苑の地には農業試験場「内藤新宿試験場」がありました。
ここは江戸時代には徳川家の譜代の家臣、内藤家の屋敷でしたが、明治初期に大蔵省がこの土地を購入、1872年に牧畜園芸の改良を目的として農業試験場「内藤新宿試験場」を設けました。
その後1879年に同地に「新宿植物御苑」が開設されるにあたり、前年の1878年、内藤新宿試験場の修学場としての一部の機能が駒場(現在の東京大学駒場キャンパスのある場所)に移転し、農事修学場「駒場農学校」となりました。
これは農学に関する日本初の総合教育・研究機関でした。

1886年に駒場農学校は東京山林学校と統合し、東京農林学校となりました。
1890年に東京農林学校は帝国大学に編入され、帝国大学の分科大学として農科大学が創設。
1919年には東京帝国大学農学部となりました。

1935年に東京帝国大学農学部は第一高等学校との敷地交換により、駒場から弥生(現本郷キャンパス)に移転しました。
その際の条件として、第一高等学校(駒場)に本郷と同じクラスの建物を建設することが決まりました。

900番講堂はこの時に建設された建物のひとつで、第一高等学校の講堂として1938年に竣工しました。
設計は駒場キャンパスの正面にある教養学部1号館と同じく、内田祥三と清水幸重でした。

内田祥三は東京帝国大学建築学科の教員で、構造計算法や鉄骨・鉄筋コンクリートの講義を行っていたそうです。東京帝国大学の教授だった佐野利器の建築構造学を引き継ぐ形で発展させ、建築構造、防災、都市計画、文化財修復など数多くの分野に業績を残すとともに、東京帝国大学営繕部長も兼務し、多くの後進を育てました。

1923年の関東大震災で崩れた東京帝国大学構内の復旧を主導し、本郷キャンパスの正門から続く銀杏並木など、キャンパスに明快な軸線を導入しました。
また、アメリカの大学の建築を中心に19世紀後半より広まったカレッジ・ゴシック様式を基調とする建物を数多く建設しました。
彼のそれらの建築は「内田ゴシック」と呼ばれ、そのひとつの900番講堂のように現在も東大構内に数多く残っています。



駒場博物館。
900番講堂と外観はほぼ同じだが、3つのアーチを潜った先の扉の形が違う。
900番講堂は扉が3つなのに対し、駒場博物館は真ん中に扉がひとつと、左右に長方形の窓があるのみ。
また、入口に2対の狛犬がいる。
2023年6月撮影。


900番講堂の向かいには、旧制第一高等学校の図書館として1935年に建てられた、駒場博物館があります。
設計は900番講堂と同じく内田祥三、清水幸重です。
駒場博物館は美術博物館と自然科学博物館から成り、誰でも無料で入館が出来ます。

ちなみに、900番講堂と駒場博物館は建物の外観が類似しており、正門を真ん中にしてちょうど対を成す形で存在しています。

旧制第一高等学校について


旧制第一高等学校は帝国大学の予科として戦前に設置された学校です。

大学予科とは、現在の大学教養課程に相当します。
特定の旧制大学に附属する機関で、専門教育を行う大学本科、つまり今でいう学部に進学する前段階の過程で、予備教育を行う機関でした。

旧制第一高等学校の修学期間は3年で、三部に分かれていました。
(一部は法学・政治学・文学、二部は工学・理学・農学・薬学、三部は医学。1921年以降は文科甲/乙/丙類、理科甲/乙類となる)

旧制第一高等学校の卒業生の多くは東京帝国大学へ進学し、あらゆる分野のエリートを排出しましたが、戦後のGHQの指導による学制改革により1950年に廃止されました。

旧制第一高等学校の廃止後も校舎や組織は東京大学教養学部前期課程(入学後最初の2年間)に組み込まれ、現在も建物がそのまま残っています。

東京大学における教養学部の位置づけ


東京大学は入学者全員が前期課程2年間を教養学部に所属します。
この2年間は駒場キャンパスで特定の学問領域に偏らず様々な学問を学ぶ期間となります。

これはリベラルアーツ教育と呼ばれ、「特定の学問領域に偏ることなく社会・人文・自然を幅広く学び、自らの思考を理路整然と自在に展開できる能力を培う」過程です。
「大学入学時点の限られた知識・経験・思考の限界から、学生を文字通り解放(liberate)して、ありきたりの固定観念や先入観から自由で、他者の説を無自覚に受け売りしない、本当の意味で独立した思考の持ち主とするために行われるもの」だそうです(東京大学教養学部HP「前期課程におけるリベラルアーツ教育」より)。

前期課程のうち初めの1年半は、文科一類・文科二類・文科三類・理科一類・理科二類・理科三類の六つの類に分かれ、リベラルアーツ教育によって幅広く深い教養と豊かな人間性を培うとともに、後期課程の専門教育に必要な基礎的な知識と方法を学ぶ時期となります。
そして残りの半年で進学が内定した学部・学科での学修の基礎となるべき専門教育科目を主として学びます。
その後、後期課程でそれぞれの学部・学科へと進み専門的な教育を受けるという仕組みになっています。


ちなみに、小沢健二さんは1988年に東大に入学し、文科三類に所属していたそうです。

この前期教養課程について小沢健二さんは「そうそう、あれ大好き。あれはビュッフェですもんね。」と語っており、2年間偏りなく、様々なジャンルの講義をとっていたようです(『AERA』2022年5月23日号)。

その後の後期課程2年間は文学部西洋近代語近代文学研究室の柴田元幸さんのゼミに所属していました。柴田元幸さんとは大学教員と学生の師弟関係ではありましたが、当時から非常に仲が良く、お互いに友人として交流を深めていたようです。『ヘッド博士の世界塔』は柴田元幸さんのお宅の引っ越しを手伝った際に頂いたレコードをサンプリングして制作したそうです(雑誌『LES SPECS』1992年11月号 「小沢健二×柴田元幸」より)。

駒場キャンパス正門に残る旧制第一高等学校の校章とオリーブ


駒場キャンパスの正門にある旧制第一高等学校の校章。2017年12月撮影。


なお、駒場キャンパスの正門には旧制第一高等学校の校章がはめられているのですが、その中には橄欖(オリーブ)の葉が描かれています。
これはローマ神話の女神ミネルヴァの「文」を意味するとされています。

また、校章には軍神マルスの「武」を表す三つ柏も描かれています。
大きな葉が柏、その間にある小さな葉が橄欖(オリーブ)だそうです。
オリーブと三つ柏で「文武両道」を表しているそうです。

オリーブと言えば、小沢健二さんが「ドゥワッチャライク」を連載していた雑誌。

現在の東大にも「オリーブは生きている(OLIVE VIVE)」ということでしょうか。

教養学部900番講堂のパイプオルガンについて

さて、講義の詳細には「共催:東京大学総合文化研究科・教養学部オルガン委員会」と書かれています。

東京大学教養学部オルガン委員会

実は教養学部900番講堂にはパイプオルガンが設置されています。
オルガンが設置された1977年以来、年3,4回のオルガン演奏会が定期的に開かれています。

900番講堂で定期的に行われているオルガン演奏会は、コロナ禍のため長らく開催が見送られていましたが、2023年6月14日に開催されることになりました。

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パイプオルガンについては以前から興味はあったのですが、これまで生でパイプオルガンを聴いたことはありませんでした。
そんな中の演奏会開催の一報。
これを逃したらパイプオルガンを聴く機会は今度はいつあるだろうか、またこれは900番講堂に入れる絶好の機会だと考え、急遽聴きに行ってきました。

講堂の内観について〜東大900番講堂のパイプオルガンの演奏会に行ってみた〜



開演は19:00で、18:40の開場時間に合わせて行ってみました。
18:20頃には既に講堂前に行列が出来ていました。

開場前の900番講堂の様子。2023年6月撮影。



講堂の3連のアーチをくぐり、いざ講堂内へ。

900番講堂の入口の真ん中の扉。欄間の幾何学模様が重厚感を感じさせます。
その奥は受付のロビーになっており、さらに奥には講堂の部屋への入口がありました。
2023年6月撮影。


幾何学模様で描かれた重厚な門をくぐると、受付のフロアがありました。

後で気付いたのですが、どうやらこのフロアのサイドからパイプオルガンのある2階に行けるようでした。

フロアの奥の扉をくぐると、机と椅子が並べられた、しかし天井の低い部分が。

900番講堂の中の様子。パイプオルガンはこの真逆側の2階に位置。
2023年6月撮影。


そこを少し進むと天井が一気に広くなり、真っ白な壁を基調とした広い講堂の全貌が見えました(恐らく内装は比較的近年のものではないかと思われます)。


900番講堂の2階に設置されたパイプオルガン。2023年6月撮影。


パイプオルガンは講堂入口の上部2階、先程の天井が低いエリアの真上に設置されており、教卓とは真逆の方向に置かれていました。
講堂の机の向きとは逆で上部にあるため、オルガンを見るには後ろに向いて見上げるような形になります。

会場の収容キャパシティは600席程度とのことでしたが、講堂はそれほど大きくはなく、実際はもっと少ないように思えました。
また講堂の形状やオルガンの位置がオルガンの音響に適しているのか、オルガンの音が講義室全体に響き渡り、前を向いていてもよく聞こえました。
また、この演奏会の時は教卓側にオルガンの様子を映像として映していたので、前を向いていても演奏の様子を見ることができました。
とはいえ、直接観たいと考えていた方が多かったようで、私を含めて後ろを向いていた方が多かったように思います。

この時は海外のオルガン奏者の方とソプラノ歌手の方を招いての演奏会でした。
宗教音楽が主でしたが、バッハやモーツァルト、ハイドン、フランク、ドヴォルザークなどの宗教音楽に触れることができ、パイプオルガンの歴史も知れてとても興味深い演奏会でした。

恐らく、協賛と書かれていることから、今回の本講義ではこのパイプオルガンが使用されるものと考えられます。
でも、もしそうだとしたら、誰が演奏するのでしょうね。

歴史ある900番講堂に小沢健二さんの声とパイプオルガンの音色とが響き渡る。
もしそうなったら、きっと特別で素晴らしい講義になることでしょう。
想像するだけでワクワクしますし、聴講できる学生さんや教職員の方が羨ましいです。

教養学部900番講堂のパイプオルガンについて


東大900番講堂は一般的には三島由紀夫が東大全共闘と繰り広げた「伝説の討論会」 が行われた場所として知られていますが、この討論会が開かれたのは1969年5月13日であり、この頃はまだパイプオルガンはありませんでした。

パイプオルガンが設置されたのは戦後の1977年のことでした。

東京大学教養学部オルガン委員会のHPにオルガン設置の経緯が書かれていました。
オルガン設置の経緯は以下の通りです。

  • 教養学部にオルガンを設置したいと考える数名の教官がいた。
  • 1973年12月、隣家からの火事で吉祥寺カトリック教会聖堂後方の屋根が燃え、消火作業で聖堂のヴァルカー社製オルガンが冠水し使用できなくなりオルガンが解体された。
  • 教養学部の教官たちは、その解体されたオルガンを譲り受け修理することで、安価にオルガンを手に入れようと考えた。
  • しかしいくら安価とは言え、当時の国立大学の予算ではパイプオルガンなどとても買えるものではなかった。
  • そこで東大卒業生森稔氏の父、森泰吉郎氏(森ビル株式会社初代社長)に寄付をお願いしたところ、森氏は寄付を快諾した。
  • しかし修理を始めたところオルガンはとても再生できるような状態ではないことが判明。
  • このため新たにドイツのシュケー社よりほとんどの部品とパイプを購入し、ほぼ新品のオルガンとして新たに作ることになった。
  • 結果、森氏には当初の予定より桁違いに多い修理費用を仰ぐこととなった。

オルガン設置のための資金援助を卒業生の親に頼み、結果修理費用がかさんでもそれが出来てしまう、というのが東大ならではのコネクションで凄い話だなと思いましたが、とても良い話ですよね。
森泰吉郎氏は人情に厚く、文化芸術に理解がある方だったのでしょうね。


が、ちょっと気になる点がありまして...。
それは寄付をした方が森ビル初代社長の森泰吉郎氏で、次男の森稔氏が東大の卒業生だった、ということ。

森泰吉郎氏は六本木ヒルズ等の都市開発を行っている「森ビル株式会社」の初代社長です。
次男の森稔氏が東大の卒業生(1959年3月東京大学教育学部社会教育学科卒)だったようで、その縁からお願いをしたようです。

森ビルと言えば東京を中心に大規模都市開発を行ってきた会社。
そして次男で後の社長である森稔氏は森ビルを急成長させ、実質的な創業者と言われるほどの実力者でした。
彼は独自の再開発論を基に大規模再開発を行ってきたのですが、その彼が何と小沢健二さんと同じ東大出身だった、ということ。

学生時代から家業の不動産業を手伝っていたという森稔氏。
彼の都市開発への情熱と構想を基に東京の都市開発をけん引してきた森ビルは、今の超高層ビルの建設ラッシュに沸く東京の姿に大きな影響を与えているのではないか。
そしてそのことは、900番講堂で行われる講義「イメージの影響学」のテーマに関連しているのではないか。
そんな気がしたのです。

少し気になったので、色々と調べてみました。

追講義の会場、渋谷公会堂について

森稔氏について触れる前に、追講義の会場について触れます。

追講義はLINE CUBE SHIBUYA(渋谷公会堂)で行われます。

現在の渋谷公会堂の建物は2代目です。

戦前は、辺り一帯は「代々木練兵場」という軍事施設がありましたが、戦後は連合国軍に接収され、米軍の兵舎や家族用の居住宿舎からなる施設「ワシントンハイツ」(1946年〜1964年)が設置されていました。

渋谷公会堂はその跡地の一つに建設されました。
1964年に開業し、建て替えのため2015年に閉館しました。
2代目の現在の建物は2019年に開業しました。


ちなみに、名前がLINE CUBE SHIBUYAとなっているのはネーミングライツ(命名権)を採用しているからです。

ネーミングライツとは、スポンサー企業が公共施設などに名前を付与する命名権とそれに付帯する権利を得ることで、その施設の通称に一定期間スポンサー名を入れることが出来るという制度です。

味の素スタジアム(東京スタジアム)、日産スタジアム(横浜国際総合競技場)、京セラドーム(大阪ドーム)、Pay Payドーム(福岡ドーム)、ベルーナドーム(西武ドーム)など、最近企業やそれに関連する名前を入れている施設を耳にすると思うのですが、これらはネーミングライツによるものです。


渋谷公会堂はLINE株式会社が2019年6月1日から2029年3月31日までの10年間の契約でネーミングライツを所有しており、LINE CUBE SHIBUYAとなっています。

そのため、一見渋谷公会堂という名前が無くなったように思われますが、この名前は通称であり、正式名称としては今も渋谷公会堂です。

渋谷公会堂の施設自体は渋谷区が所有していますが、指定管理者として企業が管理するという形をとっています。
現在渋谷公会堂の管理運営を行っている指定管理者は、株式会社アミューズ、LINE株式会社、株式会社パシフィックアートセンターが合同で行っている渋谷公会堂プロジェクトチームです。

ちなみにLINE CUBE SHIBUYAとしての柿落とし公演はPerfumeでしたが、彼女たちは指定管理者のうちの1社のアミューズ所属アーティストです。

何故渋谷公会堂だったのか?

しかし、なぜ追講義が渋谷公会堂で行われるのでしょうか。
それは「公会堂」というものが出来た経緯を考えると分かるような気がします。


公会堂の目的はあくまでも講演や式典を行う場でした。
しかし、戦後になってからは芸術公演も公会堂で行うようになりました。

小沢健二さんの今回のライブのような、講義とライブとが一緒になった追講義を行うには最適の場所、ということなのでしょう。

そして何よりも、ご本人がSNSで仰っているように、ラブリーを新曲として、初めてオーケストラで演奏した場所であり、また何度もコンサートを行った思い入れのある場所であったからなのでしょうね。

森稔氏とヴァーティカル・ガーデンシティ構想

さて、ここからが本題です。

東大900番講堂にパイプオルガンを設置するための資金援助を行った森ビル初代社長の森泰吉郎氏。
彼の次男、森稔氏は東京大学の卒業生でした。

森稔氏は1934年8月24日生まれ。実家は現在の東京都港区西新橋(当時は港区芝田村町)で米穀店を経営し、副業として貸家経営も行っていたそうです。

横浜市立大学の教授だった森稔氏の父の森泰吉郎氏が、教員の傍ら虎ノ門周辺の土地を積極的に買い進め、1955年には森ビルの前身となる森不動産を設立。
実家の近隣に虎ノ門の交差点付近に西新橋1森ビルと西新橋2森ビルを建設したのが森ビルの貸しビル業の始まりだそうです。
当時は地名と番号、「森ビル」の名称を冠した「ナンバービル」を建て、貸家経営を行っていたそうです。

歴史・沿革|企業情報|森ビル株式会社

森稔氏について

小説家を目指していた学生時代、病気による自宅療養を期に家業を手伝う


森稔氏は1955年に東京大学に入学しました。

森稔氏は学生時代は小説家を目指していたそうです。
しかし大学2年生の時に肋膜炎を患い1年間自宅静養に入ることになり、大学を留年せざるを得ない状況になってしまいました。

ちょうどその頃、実家の米屋を4階建ての貸しビルに改築することになり、稔氏はその際の工事管理や入居者探しを任されることになりました。
それを機に父の貸しビル業の手伝いを始めたところ、その仕事の面白さに気付き、その道へと突き進むようになったそうです。

稔氏は1959年(昭和34年)に東京大学教育学部社会教育学科を卒業し、同年6月に森ビル株式会社を設立するとともに取締役に就任したそうです。

挫折から「夢の砦」 実現への飽くなき闘争 -森ビル社長 森 稔氏

学生時代に熱中したル・コルビジェ『輝く都市』とその影響


このように、家業の貸しビル業を手伝い始めたものの、森稔氏自身は当初は建築の知識が全くなかったため、建築や都市関係の本を読み漁るようになったと言います。

その時に読んだ本の一つがル・コルビジェ(Le Corbusier, 1887-1965)の『輝く都市』の翻訳版でした。
森稔氏はこの本を読み、感銘を受けたそうです(『PRESIDENT』2010年8月30日号 より)。

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ル・コルビジェは1920年代から30年代にかけて「人口300 万人の現代都市」(1922年)、「ヴォアザン計画」(1925年)、「輝く都市」(1930年)といった都市計画案を次々と発表しました。

コルビジェは1922年、「人口300 万人の現代都市」の中で、「公園の中のタワー(Tower in Park)」、「垂直田園都市(Vertical Garden City)」と呼ばれる革命的な都市イメージを初めて提起しました。

コルビジェは、ヨーロッパを中心に産業革命が進む中、過密する都市の問題を解決する策として、高層ビルを建設して空き地(オープン・スペース)を確保し、また街路を整備し自動車道と歩道を分離すること(歩車分離)を提唱しました。

コルビジェは「300 万人の現代都市」の中で、「我々の従うべき基本的原則は、① 都市の中心部の混雑を除去すること、② 都市の密度を高めること、③ 移動のための手段を増やすこと、④ 公園やオープンスペースを増やすことである」と説明しています。

コルビジェのこうした考えは、後の森稔氏の都市開発事業に大きな影響を与え、「ヴァーティカル・ガーデンシティ構想」として、現代の森ビルの都市開発構想の主軸となっています。

森ビル2代目社長就任、「アーバン・ニューディール政策論」の発表(1999年)


森稔氏は1993年から森ビルの2代目社長として、都市の再生を理念として長らく都市開発に携わってきました。
その自身の理念を具体的に現したのが「アーバン・ニューディール政策」でした。

森稔氏は1999年に発表した「アーバン・ニューディール政策論」という論考の中で「アーバン・ニューディール政策」を提唱しました。

―内閣府HP「第2回総合規制改革会議 配付資料一覧 森委員提出資料」(平成13年5月31日)より

「アーバン・ニューディール政策」とは、「不良債権化した土地」を政治主導で計画的に再開発し、景気浮揚を図るというものでした。

この政策論の中で彼は、従来の戸建て毎に細かく細分化された街区を一つの大きな敷地に集約し、超高層ビルと緑地からなる「職住近接」の自己完結型の都市「ヴァーティカル・ガーデンシティ(立体緑園都市)」を築くことを構想しています。

Vertical Garden City - 立体緑園都市|森ビルの都市づくり|森ビル株式会社

その「ヴァーティカル・ガーデンシティ」の理念から、森ビルは超高層ビルと緑地からなる赤坂のアークヒルズ(1986年開業)や六本木ヒルズ(2003年開業)などを建設していきました。

この「ヴァーティカル・ガーデンシティ」の構想は、彼が学生時代に感銘を受けたル・コルビジェが提唱した構想そのものであり、彼が学生時代に熱中しイメージしたことがその後の彼の事業に大きく影響していると言えるでしょう。

森ビルの都市開発


こうして家業を継ぎ、森ビルで都市開発をするようになった森稔氏。
彼は、ヴァーティカル・ガーデンシティ構想を実際にどのように実現しようとしたのでしょうか。

ここで森ビルが携わってきた再開発事業を少し振り返ってみましょう。

アークヒルズ(1986年開業)


アークヒルズは「赤坂・六本木地区第一種市街地再開発事業」により1986年に開業した施設で、日本における民間企業による大規模都市再開発の先駆けでした。

「ヴァーティカル・ガーデンシティ」構想の通り、谷地に人工地盤を敷き、超高層ビルと緑地からなる「職住近接」の自己完結型の都市を築いたのがこのアークヒルズになります。

開発前のこの土地は戦前から細かく細分化された土地割りとなっており、戦後の焼け野原から復興した戸建ての街並みが密集していましたが、それら一つの街をまとめて開発をしたのが森ビルでした。

「遡ること1967年、森ビルがこの地に最初の土地を取得し、行政による再開発適地指定を受けてから、じつに19年の時間を費やしています。」(アークヒルズHP「開発経緯」より)

1967年に森ビルが高島湯と周辺の土地を買い入れ、1969年に森ビルが33階の高層ビルの建設を計画したのがこの土地の再開発のきっかけでした。

当時、東京都は「都市再開発法」の施行直後(1969年施行)だったこともあり、周辺地域を含む開発を行うことを森ビルに提案したそうです。

アークヒルズの再開発は実に19年の歳月を費やしていますが、当初は寺院や教会などを含む現在よりも広範囲な区域を計画地としていたそうで、計画が難航していたそうです。
特に六本木一丁目は住宅密集地で、古くからの住宅街を潰して再開発を進める森ビルに対して反発が強かったそうで、街のあちこちに再開発反対のビラが貼られていたそうです。
そして最終的には地権者の約8割が地区外に転出しました。
そのため当時アークヒルズは「住民追い出し再開発」と非難されたそうです。

当時森稔氏は森ビル常務で再開発チームの陣頭指揮に当たっていましたが、地権者の8割が地区外に転出したことについて、「現実は、この再開発を最後までやり遂げられること、再開発によって街の価値が上がるということを地権者に信じてもらえなかったことが、転出者が増えた最大の原因ではなかったかと思う。私たちの力不足もあるが、まだ参考となる再開発モデルがなかったことも大きかった。」と回顧しています(森稔 2009『ヒルズ 挑戦する都市』朝日新書 より)。

開発経緯 | アークヒルズ - ARK Hills

アークヒルズの施設は、37階建てのオフィスビル「アーク森ビル」、22階建ての居住ビル「アークタワーズ」、東京で初めてクラシック音楽コンサート専用に設計された「サントリーホール」、そして「アークガーデン」と称される街区内の緑地、マルシェや蚕の市などのイベントが開かれる「アーク・カラヤン広場」、そして36階建てのホテル「ANAインターコンチネンタルホテル東京」などが揃った区域になります。


そう言えば、小沢健二さんは2022年10月5日にアークヒルズ内にあるANAインターコンチネンタル東京の高層階から同ホテルの「ガーデンプール」を撮影したインスタストーリーを載せていました。

ANAインターコンチネンタルホテルは先述の通りアークヒルズの敷地内にあり、アークヒルズの再開発によって1986年(昭和61年)6月7日に開業したホテルです(当時の名前は東京全日空ホテル)。

小沢健二さんが講義の1年前に森ビル発展の礎となり日本における大規模都市再開発の先駆けとなった地を訪れている。
これは偶然でしょうか。

六本木ヒルズ(2003年開業)


六本木ヒルズは民間による国内最大級の再開発事業により、2003年に開業しました。

六本木ヒルズが建設される前、この地にはかつて約500世帯が暮らしていました。
計画立案から完成までは約17年の歳月を要しましたが、それはバブル崩壊に加え反対派住民による抵抗などの紆余曲折があったそうです。

六本木ヒルズの敷地内には、小沢健二さんがよく出演をする、ご友人のタモリさんが司会をする音楽番組「ミュージックステーション」を放送するテレビ朝日があります。

六本木ヒルズはテレビ朝日の建て替えを持ちかけられた森ビルが周辺地域も併せて開発をすることを勧めたそうです。

表参道ヒルズ(2006年開業)


表参道ヒルズは関東大震災(1923年)を期に建設された「同潤会 青山アパート」を取り壊し再開発することによって2006年に開業しました。

同潤会は、関東大震災後の義捐金をもとに、被災者に安定した住宅を提供することを目的として設立された財団法人です。
同潤会は1925年から1934年の間に都市中間層向けの良質で災害に強い不燃住宅を東京に14箇所、横浜に2箇所を建設しました。

「同潤会 青山アパート」は1926年に完成した日本の最初期のアパートでした。
戦前は同潤会の所有するアパートでしたが、戦後に東京都の所有となり、更に1950年には各住民に払い下げられ、個人の所有となりました。
1960年代以降は原宿・表参道地区が発展するなか、アパートの部屋はブティックやギャラリーとしても使用されるようになりました。
しかし建物や設備の老朽化が進み、次第に住民の多くが建て替えを希望。
建築業界など各界からは保存が叫ばれましたが、2003年に解体されました。

当初は隣接する渋谷区立神宮小学校と一体となった開発計画だったそうですが、実現はしませんでした。

神宮小学校は「原宿表参道ハローハロウィーンパンプキンパレード」の起点と終点の場所になっています。
2017年、2018年には小沢健二さんもご家族で参加していました。
(2017年は台風によりパレードは中止となりましたが、パレードと併せて行われていた、仮装をしてプロのカメラマンに撮影をしてもらうイベント「Homemade Halloween 2017」には参加していました)

虎ノ門ヒルズ(2014年〜順次開業)


虎ノ門ヒルズは東京都港区虎ノ門・愛宕にある複合施設です。
2014年に「虎ノ門ヒルズ 森タワー」が開業したのを皮切りに、2020年にオフィスを中心とした「虎ノ門ヒルズ ビジネスタワー」と東京メトロ日比谷線の新駅(虎ノ門ヒルズ駅)が、2022年に住宅地を中心とした「虎ノ門ヒルズ レジデンシャルタワー」がそれぞれ開業しています。
2023年秋には「虎ノ門ヒルズ ステーションタワー」が開業予定です。

虎ノ門ヒルズの最初のビル「虎ノ門ヒルズ 森タワー」は地上52階・地下5階建てで、下層階には商業施設が、中層階にはオフィスが、上層階には高級ホテル「アンダーズ 東京」が入っています。

元々1946年に環状2号線を整備する計画地でしたが、新橋や虎ノ門のオフィス街に近いこのエリアの地価が高いため、用地買収が思うようにいかず、事業は難航し60年程手つかずの状態にあったのです。
そこで東京都は、1989年に制定された立体道路制度を利用し、用地買収にかかる費用を軽減化しようと考えました。

立体道路制度とは、一定の要件のもとで道路区域内に「重複利用区域」を地区計画で定め、「重複利用区域」を建築敷地として建物を建設できるようにする制度です。

この制度を利用し、東京都は2002年に都道の上にビルを建設する構想を発表しました。
道路を地下化することで地元の人びとの合意を得、計画が進むことになったそうです。


そしてこの計画に森ビルが参画を決めたことで本格的な事業化が進みます。
この森ビルの参画は、公共事業に民間が計画の作成段階から参画する「事業協力者方式」の第1号となりました。

当初の東京都などの計画では4棟のビルを建設する構想でしたが、当時の森ビル社長の森稔氏が1棟への集約を主張したことで超高層ビルを1棟建設する計画に変更になるなど、森ビル側の意向が計画に強く反映されたそうです。

虎ノ門ヒルズ森タワーの芝生広場。
言わば敷地で遊べる高層ビジネスビルだ。2017年4月撮影。


敷地内には芝生広場のある庭園やガーデンハウスが併設されています。
立体道路制度を活用して環状2号線と一体でビルが建設されており、ビルや芝生広場の真下には大きな道路が通っています。

虎ノ門ヒルズ森タワーのトラのもん。2017年4月撮影。


ちなみに、このビルの低層階には虎ノ門ヒルズのマスコットキャラクターのホワイトタイガーに扮したドラえもん「トラのもん」の等身大フィギュアがあります。コンセプトは「22世紀のトーキョーからタイムマシンに乗ってきたネコ型ビジネスロボット」だそうです。

なお、小沢健二さんのInstagramには虎ノ門ヒルズの真下を通る環状2号線を見下ろした写真がしばしば投稿されていました。
虎ノ門ヒルズは高層階に外資系の高級ホテル「アンダーズ東京」があります。
小沢健二さんはホテルを仕事場として借りることがよくあるそうなので、ここはそうしたホテルの一つなのかもしれません。

麻布台ヒルズ(2023年秋開業予定)


小沢健二さんは2019年4月に動画『小沢健二飯倉片町藪蕎麦前』で新作アルバム(のちのアルバム『So kakkoii 宇宙』)の告知を行いました。
この動画が撮影された地のすぐ傍では、動画が発表された2019年4月より、大規模再開発「麻布台・虎ノ門第一種再開発事業」が行われています。

この再開発事業は森稔氏の「ヴァーティカル・ガーデンシティ」構想を具現化したものとなっており、森ビル主導による街区「麻布台ヒルズ」が2023年秋に開業します。

麻布台ヒルズ Azabudai Hills

ここは古川の支流が流れるすり鉢状の谷地形があったところですが、『小沢健二飯倉片町藪蕎麦前』が公開された2019年春から再開発が始まり更地になり、かつての谷の痕跡は人工地盤により平地にすることでなくなり、超高層ビル群と商業施設、そして緑地からなる街へと変わってしまいます。

この地は江戸時代は下級武士の与力同心の住む街でした。谷底の東西を走る道「我善坊谷坂」の南北に下級武士の家々が連なっていました。
また、谷底から南北の台地に上ることが出来る、人が行合う坂「行合坂」などがあり、江戸時代に由来のある坂が幾つもありました。
しかしそれらの谷と坂は人工地盤によりならされ、消えてしまいました。

この地の再開発についてはブログにまとめてありますので、是非読んでみて下さい。

『小沢健二飯倉片町藪蕎麦前』の動画とその周辺地域について

「麻布台ヒルズ」の計画の実現には30年もの歳月がかかったそうです。

経緯としては、1988年に港区が六本木・虎ノ門地区更新基本計画を策定、1993年に「虎ノ門・麻布台地区市街地再開発準備組合」が設立されましたが、その後20年程計画は進んでいませんでした。
しかし、2014年に第1回東京圏国家戦略特別区域会議において都市計画法の特例を活用するプロジェクトに選定されました。
更に2017年に麻布郵便局を含む虎ノ門・麻布台地区が「国家戦略特別区域法に基づく区域計画」に認定されたことで都市計画が決定します。
その翌年の2018年には「虎ノ門・麻布台地区市街地再開発組合」が設立され、2019年4月より地区の建物の解体が開始され、街は更地となってしまい、2019年8月に本体工事の着工となりました。


この地は昭和20年代には小さな店が軒を連ね、なんでも町内で事足りるバランスの取れた「職住一体」の街だったそうです。それが東京オリンピックの頃には木造の商店がビルに変わり商店から貸事務所になり、働く人の街に変貌していったそうです。
そうして街のバランスが徐々に崩れていき、商売がダメになっていった、そんな矢先に舞い込んできたのが再開発の話だったようです。
加えて、平成になると徐々に商店主の方々が高齢になり代替わりしていくなかで、跡継ぎの息子さんたちが再開発の話をきっかけに今後商売を続けるかどうかを考え始めた方も多くいらっしゃったようです。

そうしたことから、住民として、商店として、テナントを貸すオーナーとして、様々な立場の違いはあれど、権利者約300人の9割以上は再開発後、街に戻ってくることを選択しているそうです。

消滅寸前のゴーストタウン「虎ノ門五丁目」は今...住民の意外な本音(フリート 横田) @moneygendai


一方で、こうした見方もあります。

2.住民追い出しの合理化装置―国家戦略特区による麻布台の再開発―

「住民の多くが抱く「特別な地域」「特別な再開発」という認識が、低層の住宅を一掃し、超高層ビルが林立する「国家戦略」という格別な意味を付与された街に生まれ変わることを合理化する。」


街としてのバランスが崩れ商売が難しくなっていたとは言え、再開発の動きがずっとなかったことを考えると、2014年に都市計画法の特例を活用するプロジェクトに選定されたり、2017年に「国家戦略特別区域法に基づく区域計画」に認定されたことは、既存住民が再開発合意に転じる要素としては充分だったのではないかと想像できます。

都市開発を円滑に進めるために行ってきたこと

政界への働きかけと法整備の必要性の提言


一企業として開発を行っていたアークヒルズから、国家戦略特区の一地区として選ばれるまでになった森ビルの再開発(ちなみに虎ノ門ヒルズと計画中の「第2六本木ヒルズ(六本木五丁目西地区)」もその一地区)ですが、ここにきて森ビルが東京の再開発に大きな影響を与えるようになったのは、森稔氏の政界への働きかけ、再開発をより円滑に進めるための法整備の必要性を政府に説いていたことが大きく影響していると思われます。

森稔氏は1998年頃から政界と関りを持っていたそうで、1998年には経済戦略会議委員に、2000年代の小泉純一郎内閣では総合規制改革会議(2001年4月1日-2004年3月31日)のメンバーに名を連ねていました。

六本木ヒルズ生みの親・森稔は、竹下、小泉まで手玉に取っていた!?

小泉政権下で行われた総合規制改革会議は当時の会議のやり取りが記録されネット上で公開されています。


先程も触れた森稔氏の「アーバン・ニューディール政策論」のPDF化された資料ですが、これは平成13年(2001年)5月31日に行われた「第2回総合規制改革会議」において、この会議の委員だった森稔氏本人が提出した配付資料です。
この会議で森稔氏は何度も再開発をより円滑に進めるための法整備の必要性について発言をしていました。

―内閣府HP「第2回総合規制改革会議 配付資料一覧 森委員提出資料」(平成13年5月31日)より


そしてその後、小泉政権下の2002年6月に施行された「都市再生特別措置法」は、森稔氏の提唱した「アーバン・ニューディール政策」を盛り込んだ内容になっています。


「都市再生特別措置法」は、都市機能の高度化と居住環境の向上を図るために民間事業者を主とする都市再生事業を行うことを目的とし、2002年に定められました。
この法律の重要な点は土地の高度利用であり、特別地区に指定されると既存の土地利用規制が解除されます。

ル・コルヴィジェが構想し、森稔氏がイメージし夢見た「ヴァーティカル・ガーデンシティ構想」の実現には超高層ビルの建設が必要であり、そのためには現行法で定められた土地利用規制を解除する必要があったのです。

「都市再生特別措置法」による土地の高さ利用の規制解除により、これまで容積や高さ制限があってできなかった都市づくりができるようになり、以後、森ビルだけでなく多くの民間企業が大規模再開発計画を乱立させ、計画地の多くの住民を巻き込むこととなってしまいました。

そして今の東京は、超高層ビルの建設ラッシュが続く超高層ビルバブルといった様相を呈しています。


「アーバンニューディール政策」というのは、「ニューディール」と名がつく通り、米国大統領フランクリン・ルーズベルトが1933年より行った経済政策「ニューディール政策」の都市版という位置づけなのでしょう。

※「ニューディール政策」とは、アメリカ合衆国第32代大統領・フランクリン・ルーズベルトが世界恐慌(1930年代にアメリカをから世界に広まった深刻な経済恐慌)による不況の克服を目的として実施した一連の社会経済政策のことです。具体的には、農業調整法・全国産業復興法・社会保障法などの制定・施行、テネシー渓谷開発事業などが挙げられます。

森稔氏は「アーバンニューディール政策」の具体的な構想として、ル・コルヴィジェがかつて構想した「ヴァーティカル・ガーデンシティ構想」を提案しています。
「立体緑園都市」と訳されるこの構想は、今も森ビルの都市理念となっています。

Vertical Garden City - 立体緑園都市|森ビルの都市づくり|森ビル株式会社

「ヴァーティカル・ガーデンシティ構想」はイギリスのエベネザー・ハワード(Ebenezer Howard, 1850-1928)が提唱した「田園都市」(Garden City)構想に影響を受けたと言われています。


18 世紀後半から 19 世紀前半にかけて起こったイギリスの産業革命に伴い、都市に人々が集中し、人口の過密化や公害、住環境の悪化など様々な都市問題が出てきました。
それらの問題の対応策として、ハワードは都市と農村の長所を合わせた「田園都市」を建設しようと考えました。
1898年に出版された『明日-真の改革にいたる平和的な道』(To-morrow: A Peaceful Path to Real Reform)(1902年に『明日の田園都市』(Garden Cities of Tomorrow)に改題)では、その中核となる理念について「都市(Town)と農村(Country)の結合」(原文は“Town and country must be married”)という記述がなされています。

ハワードの田園都市構想では、郊外に都市と農村の両方の長所を兼ね備えた田園都市を建設すれば、その魅力により都市に住む人々はその魅力に引き寄せられ、田園都市での新たな暮らしを享受することで、大都市の過密化と農村の荒廃化という2つの問題の解決に繋げようと考えたのでした。

ハワードの田園都市の考えはその後世界中に広がり、日本でも20世紀の初めには宮内省など早くから田園都市の思想が伝えられ、渋沢栄一が1918年に田園都市株式会社を設立し田園調布を開発したり、田園都市株式会社の後身の東急による多摩田園都市プロジェクトや、多摩ニュータウンなどの大都市近郊のニュータウンの建設に影響を与えました。


ニュータウンと言えば、岡崎京子さんの作品『リバーズ・エッジ』や『ジオラマボーイ・パノラマガール』などが浮かびますが、岡崎京子さんの作品はこうした都市開発によって生まれた郊外のニュータウンを舞台に他者から提案された生活様式を送ってきた若者の姿を作品にしている、とみることもできます。

『ジオラマボーイ・パノラマガール』に関しては以下の論文が大変興味深い内容でしたのでリンクを貼っておきます。


都市開発が人々の生活に確実に影響しているさまを描いているともいえるかもしれません。

ハワードの描いた田園都市のイメージを解釈し、都市開発を行った人々が思い描いた構想、そのイメージが実在化し、そこに実際に人びとが住むようになった時、そこに住む人びとにもたらす影響はどのようなものであったのでしょう。
そしてそれは、今の都市開発においてもそのまま当てはまることであり、そうした影響を受けた側、当事者の視点というのも重要なのではないでしょうか。

森ビルが行ってきた地域住民との合意形成について


また、森ビルの社員たちは住民と積極的に関わっていきます。
例えば、担ぎ手がいなくなった地元の神社の神輿の担ぎ手になったり露店を開いたり、住民と交流を深め、合意形成を得てきたようです。
人と人との繋がりを重視してきた森ビルのやり方、良いような気はするのですが...でも結局ビジネスでの関係なんですよね。
また、住民たちと積極的に関わっていながら、高層ビルを建てるという前提は変わらず、当初の計画の大筋は変わらないまま計画の実現に至っており、再開発計画に住民の意向が含まれているようには思えないというところが引っ掛かります。

結局住民との触れ合いというのも、合意形成をするための理解を得るため、信頼を得ようとするための手段に過ぎないのではないでしょうか。
森ビルの担当と住民とが信頼関係を得たとしても、そこに長く住めば住むほど担当も変わるだろうし、ずっと同じ人との関係が続いていく保証はどこにもない。


また、先程の麻布台ヒルズの記事にもありましたが、再開発計画に対する地元住民の対応の違いは、街への愛着、ということがひとつの重要な視点な気がします。
この街に住む人たちは戦後にこの地に来た人が殆どのようですし、街への愛着がそこまであるわけではない。
浅草のようにここにずっと住みたい、という街への愛着が無い住民は、自分たちの街をどうしたいか、ということを自発的には考えない。
再開発後は自分たちも新しいマンションに住むことができるし、商店を出すこともテナントを貸し出すこともできるからメリットもある。
だから、住民でもない他人が考えた再開発で自分たちの持つ土地がその誰かのため、国のため、外国人のために役に立つのなら、それでよい、と思うのかも知れません。

住民追い出しの合理化装置や合意形成を得るための森ビルのノウハウは、そうした人びとの考えの隙間にうまく入り込み、住民の心を掴み自分たちの実績や成果のために対象となる土地を自分たちの思うように変えていくのかも知れません。

実際に働く社員の中には実績や成果のためじゃなく、純粋に街を変えたいと本気で思っている方も多いのかも知れないのですが...。
そうした方でさえも、純粋であるがゆえに森ビルの理念や自分の理想の虜になってしまっていて、盲目的になってしまっているのではないか、と思ってしまいます。

講義『イメージの影響学』と近年の都市開発


『高い塔』という曲で「古代の未来図は姿を変え続ける」と歌う小沢健二さんは、今の都市計画をどのように見ているのでしょうか。

今年(2023年)から大規模都市開発により解体が始まり、数棟の超高層ビルと緑地へと変貌を遂げるアルペジオ界隈は、森ビルの建設ではありません。
しかし、森稔氏が思い描いたロールモデルを基に、関東大震災や戦災を乗り越え、戦前の建物を含む多くの戸建てが立ち並び、たくさんの生活が根付いていたその街を更地にし、人びとが培ってきた土地の記憶をなかったことにして、彼が思い描いたイメージを模倣した都市空間へと作り替えていくのです。


森稔氏の理念は法律を生み、都市開発の規制を緩和します。
また森ビルの都市開発は一つのロールモデルとなり、他の企業もそれに倣った都市開発を行っていくことになります。


「イメージの影響学」という観点から見ると、森稔氏の都市開発の構想(イメージ)が現実に影響を及ぼし、法律をつくり規制を緩和し、政治主導により比較的短期間で都市開発を行えるようになってしまった、ということになります。

東京の街は、彼が理想としたイメージが影響し、大きく様変わりすることになりました。


もちろん、いろいろな街づくり、都市開発の形があるべきだとは思います。
その前提として、一番重視すべきは、今現在そこに住み、働き、暮らしている住民の声、彼らがこの地でどう暮らしたいか、ということのはずです。

しかし最近の都市開発は住民の声を大事にしているのでしょうか。
大規模な都市開発が計画通りスムーズに行われることに重きが置かれ、住民は「説得」され、住民が要望を出したところでそれが反映されることはない。
開発者は基本的にはその理念を曲げることはないのです。
なぜならその理念は住民にとっても良いことのはずで、必ず受け入れられるはずだと彼らは考えているからではないでしょうか。

例えば、戸建て住宅が多い地に何故高層ビルが建てられなければならないのか。
住民が高層ビルを望んだのでしょうか。
防災のため、入り組んだ区画で救急車が入れないから、とはよく行政の理由として挙げられることではありますが、例えば高層ビルの高層階で病人が出たりした場合、地上よりも迅速に病院へと運ぶことは可能なのか、と疑問です。
また、そこに住む住民用の棟を小さく建て、新規住民のためのより大きな高層マンションを建てるケースが多いのを見ると、既存住民のことを考えた都市開発だとはとても考えられません。
新しい戸建てを立ててくれればそれが一番なような気がするのですが、そうはならないのはなぜなのでしょうか。
それは高層ビルを建てたいのは住民ではなく、都市開発を計画する側だからではないでしょうか。
だとしたら、そんなものは一方的な価値観の押し付けにすぎないのではないでしょうか。


【対談】オオヤユウスケ(Polaris) × Bose(スチャダラパー)

例えば、スチャダラパーのBoseさんは、都心に住んでいた当時のことを振り返って、次のように語っています。

Bose : 「なんでみんな狭いところにいなければいけないんだろう」という疑問はずっとあって(笑)。僕にも何に囚われたのかわからないけど、東京の4km圏内くらいから出ずにいた時期が20年ぐらいあるんですけど。でもこれって、そうなる様に育てられてしまっただけなんじゃないかと。

Bose : どこの国でもそうなのかもしれないけど、「シティ」って言われる場所をつくるわけじゃないですか。その幻想をずっと見せて、なんとなく「そこに近くないとお仕事がなくなるよ」みたいなイメージをさせる。そういうものから1番遠くあるべきミュージシャンという人たちこそが東京にいる、みたいな。


※この件に関連して、Boseさんが小沢健二さんと話をしていて、Boseさんが都会を離れて鎌倉に住むようになって、小沢健二さんもその方がいいみたいな話をしているのがあったと思うのですが...出典を忘れてしまいました。
もし知っている方がいましたら教えて頂けないでしょうか。

「職住近接」「職住の複合化」という価値観を押し付けられている、という指摘。

いろいろなものが集まっているから都市に住みたいと考えながらも、タワマンに住むことや東京に住むことの価値、職場が近い、狭い空間に住む、ということのしんどさを、実際に住む人びとは実は感じているのではないでしょうか。
それはBoseさんのように、都会に住むというライフスタイルを見つめ直し、都心から郊外や田舎へ移り住む人びとが増えているということからも分かります。

さいごに:小沢健二東大900番講堂講義の学生・院生への選考レポートのテーマ


さてここまで色々と書いてきましたが、最後に本講義の選考レポートの内容について触れてみたいと思います。


「小沢健二東大900番講堂講義」の本講義において、学生・院生が講義に応募する際、選考基準としてレポート課題が与えられていました。

影響学セミナーの一環としてのこの講義のレポートのテーマは以下のようなものでした。

学生・院生は、ご自分の学んでいることが
社会に対して持つ影響について、
「影響」とはそもそも何かを考えながら、率直な文章を書き、提出してください。ご自身の関心がある分野が持つ「影響」の理想、現実、疑問点、ひそかな問題点、などです。笑
選考の上、受講いただける方には後日お知らせします。


「自分の学んでいることが社会に対して持つ影響について」ということをテーマにしたこのレポートは、大人の私たちにとっても非常に考えさせられるテーマなのではないでしょうか。

自身がやろうとしている、或いは現在やっていることが社会にどのような影響を与えるかということは、我々が決して忘れてはならない視点のような気がするのです。

特に、自分がより上の立場になるなど、影響力がより強い立場(権力を持つ立場)になった場合において、それはなくてはならない視点です。

小沢健二『流動体について』の主人公が「もしも間違いに気がつくことがなかったのなら?」と並行世界について考えるように。


小泉内閣の規制緩和により、現在の東京では古い街並みや工場やビルなどの跡地のみならず、これまで規制され守られてきた公共空間においても、さまざまな都市開発が同時多発的に行われるようになってしまいました。

それはもしかしたら、江戸時代の大火や明治時代の文明開化、関東大震災や空襲、高度経済成長よりもすさまじい変化を、東京という街、或いはあらゆる都市や街にもたらそうとしているのかも知れません。


こうした現状を見て、現在もし森稔氏が小沢健二さんの講義のレポートを書いたとしたら、「ご自身の関心がある分野が持つ「影響」の理想、現実、疑問点、ひそかな問題点、など」についてどのように記述をしていたのでしょうか。



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